ノート:二諦

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

編集の理由説明[編集]

2017-06-01[編集]

こちらについて。以下の「疑問点範囲」テンプレート削除。

{{疑問点|title=原典では「世俗諦・勝義諦」と「世俗有・勝義有」は使い分けられており、あるいは存在(「有」)を「諦」と誤植した可能性さえある出典をわざわざ見つけ出してきたとしか考えられない。悪意ある編集ではないか?|date=2017年6月1日}}

理由: ①記事の主題が「二諦」なのだから、「二諦」と呼ばれている様々な対象(事例)を様々な文献に基づいて記事に載せることは、この記事の趣旨に適う。②出典たる平川論文では、「有部は勝義有と世俗有を二諦と名付けている」旨が5頁の左上にはっきり書いてあり、これは二諦の本文にそのまま反映されているので、この出典の読み方に誤りはない。③ A「有部は勝義有と世俗有を二諦と名付けている」という平川の主張と、B【「世俗諦・勝義諦」と「世俗有・勝義有」が平川論文において使い分けられている】ということとがなぜ「両立しない」のかについて、疑問点範囲テンプレートを付けた人物は全く説明していない。従って、Bのみを論拠としてAを否定できるという判断の正しさが未だに示されていない。従ってこのB「使い分けられている」というのは単なる陳述にすぎず、Aを否定するための論拠にはなっていない。④平川論文が【「有」を「諦」と誤植した可能性がある】との主張は単なる憶測であり、何ら根拠が無い。誤植だと言いたいなら根拠が必要である。①②③④により、この疑問点範囲テンプレートは不要であるし、疑問を付けられた記述の側には何ら問題がない。--Leonidjp会話2017年6月1日 (木) 01:31 (UTC)[返信]

問題点の指摘[編集]

2017/06/06[編集]

6月6日に指摘した問題点をここにも転記しておきます。

説一切有部の論は「世俗諦・勝義諦」<ref>[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%B8%96%E4%BF%97%E8%AB%A6+%E5%8B%9D%E7%BE%A9%E8%AB%A6&mode=search&uarnums%5B1545_27%5D=1545_27 世俗諦・勝義諦 (毘曇部)] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref> と「世俗有 勝義有」<ref>[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%B8%96%E4%BF%97%E6%9C%89+%E5%8B%9D%E7%BE%A9%E6%9C%89&mode=search&uarnums%5B1545_27%5D=1545_27 世俗有 勝義有 (毘曇部)] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>を使い分けている。
  • この部分にある2つの脚注が示す外部リンクに表示される阿毘達磨大毘婆沙論の原文をどう読んだら「使い分けている」という解釈が可能なのかについて全く説明がないうえ、たとえそれを説明したとしても、二次・三次資料無しで解釈を創出したなら独自研究である。
  • なお、この2個の脚注が示す外部リンクはいずれも阿毘達磨大毘婆沙論を提示しているわけだが、一般に「説一切有部の論」とされるものが阿毘達磨大毘婆沙論のみではないとしたら、ここでは「説一切有部の論は○○を使い分けている」と書くべきではなく、あくまでも「阿毘達磨大毘婆沙論は○○を使い分けている」としか書けないだろう。

今日から7日以内に対応がなされなければ、この部分を記事から削除することを予め告知しておきます。--Leonidjp会話2017年6月12日 (月) 06:59 (UTC)[返信]

報告 ここで指摘されている問題点に対する具体的な対応がなされていません。この箇所は上述のとおり、信頼できる二次資料において未発表の説ですので独自研究に該当しています。記事から除去しました。--Leonidjp会話2017年8月6日 (日) 00:33 (UTC)[返信]