ノート:三朝鮮

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「『史記』によれば、始祖の箕子は中国の殷王朝の一族で周の武王から朝鮮に封じられたとする。この場合の朝鮮が現在のどこだったのかは古来、論争があったが、遼寧省の喀喇沁蒙古族自治旗(前漢代の右北平郡)から出土した青銅器の銘から、西周代にここに燕の附庸だった「箕侯」が存在したが、春秋時代を待たずに滅亡していることが判明しており、これが箕子朝鮮建国伝説のモデルになった国と考えられている。その約千年後の、衛氏朝鮮の首都の「王険城」(=漢代の「朝鮮県」)は現在の平壌だったことは考古学からも現在では間違いないと考えられているが、『史記』は衛満が箕子朝鮮を滅ぼしたとはいわず、国もなにも無いところに衛満が人を寄せ集めて勝手に国を作ったように書いている。前述の喀喇沁自治旗に箕子朝鮮(に該当する国家)があったのなら前3世紀には燕に併合され消滅していなければおかしいので、衛氏朝鮮の建国を説明するのに『史記』が箕子朝鮮にまったくふれていないのは当たり前で、正しかったことになる。遼寧省方面にあった箕子朝鮮(の建国伝説のモデルになった国)がある時期に現在の平壌に東遷してきたのだ、という推測は、可能ではあるが証拠もなく、後世の文献による歴史像を付会しようとするものであって学問的でない。同時代史料の『史記』を尊重する限り、衛満の頃には箕子朝鮮は跡形もなく滅亡した後だったと考えるしかない。箕子朝鮮の最後の王の箕準から衛満が国を簒奪したのだという「説話」は『三国志』「魏志」東夷伝 辰韓条、『魏略』逸文などに断片的な記述があるが、これらは数百年後に書かれたもので、『史記』が伝える複数の別系統の話を「朝鮮」という観念的な地名をキーワードにつなげなおして再構成したものであり、史料的な価値はない(白鳥庫吉や津田左右吉などは箕子朝鮮の伝説を創作したのは楽浪郡の中国人移民たちだという説を唱えた)。ただ、前3世紀に現在の平壌のあたりに中国系の人々が住んでいたのは考古学的に明らかであるので、日本の学者は常識的な判断として燕からの移民とみる者が多い。これを前3世紀における箕子朝鮮の存在の証拠とする説もある一方で、前3世紀は燕の昭王が朝鮮・真番を略属し役人を置いて要塞を築かせていた頃であることから、『三国志』や『魏略』が描くような国家としての「箕子朝鮮」は架空の存在とする説もある[1]」を書いた韓国人ナショナリストさんは、「これらの一連の話がどの程度史実と認められるかは論争がある。ほぼ同時代史料といえる『史記』にはこれらの記述は一切なく、衛満は何もない空白地帯に建国したように読める[2]」と書いていた韓国人ナショナリストさんと同一人物でしょうが、

>『史記』は衛満が箕子朝鮮を滅ぼしたとはいわず、国もなにも無いところに衛満が人を寄せ集めて勝手に国を作ったように書いている。

出典がない。ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません。また一部の主題、特に時事問題や政治に関する項目では、興奮して、つい自分の支持する見解を情熱的に推すような演説をぶちたくなってしまうかもしれませんが、ウィキペディアはそのような演説の媒体ではありません。韓国人ナショナリストさんの独自研究は必要ありません。

>前述の喀喇沁自治旗に箕子朝鮮(に該当する国家)があったのなら前3世紀には燕に併合され消滅していなければおかしいので、衛氏朝鮮の建国を説明するのに『史記』が箕子朝鮮にまったくふれていないのは当たり前で、正しかったことになる。遼寧省方面にあった箕子朝鮮(の建国伝説のモデルになった国)がある時期に現在の平壌に東遷してきたのだ、という推測は、可能ではあるが証拠もなく、後世の文献による歴史像を付会しようとするものであって学問的でない。

上記に同じ。

>同時代史料の『史記』を尊重する限り、衛満の頃には箕子朝鮮は跡形もなく滅亡した後だったと考えるしかない。箕子朝鮮の最後の王の箕準から衛満が国を簒奪したのだという「説話」は『三国志』「魏志」東夷伝 辰韓条、『魏略』逸文などに断片的な記述があるが、これらは数百年後に書かれたもので、『史記』が伝える複数の別系統の話を「朝鮮」という観念的な地名をキーワードにつなげなおして再構成したものであり、史料的な価値はない。

上記に同じ。

中国人の箕子朝鮮を否定したい韓国人ナショナリストさん、見たくないものでもしっかり見なきゃ。ナショナリズムで歴史は消したり作ったりはできない。

礪波護武田幸男「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』中央公論社、1997年、ISBN 978-4124034066

「そしてその朝鮮では、王位は箕否から最後の箕準へとうけ継がれた。この朝鮮がいわゆる箕子朝鮮であった。」264頁
「確実なのは朝鮮はかなり古くから、遅くとも紀元前四~三世紀ごろには実在していたということである。」264頁
「さて、行きさきを急いだ衛満は、身なりを現地風にかえて浿水を渡った。浿水はいまの鴨緑江である。浿水を渡れば、そこはもう朝鮮であった。衛満はさっそく朝鮮王の箕準にとりいり、われわれ亡命者が朝鮮を護るなどとたくみに説いて、朝鮮の西境地帯に亡命者コロニーを築きあげた。一説によると、秦・漢の混乱期以来、ここに逃げこんだ中国人は数万人にのぼっていたという。かれはさらに燕・斉・趙からの亡命者を誘いいれ、コロニーの指導者となり、朝鮮乗っ取りの機会をうかがった。そこで衛満は、ひと芝居をうった。前漢が攻めてきたと詐り、箕準を護るという口実で、みずから軍隊を率い、王都の王険城に乗りこんだ。その結果は言うまでもない。『魏略』はそのときの情況について、『準は満と戦ったが、勝負にならなかった』と書きのこした。」266頁

それでは、韓国の歴史教科書にはどう書かれているか見てみよう。どうやら「国もなにも無いところに衛満が人を寄せ集めて勝手に国を作った」というのは、韓国人ナショナリストさんの独自の歴史観で韓国の歴史教科書ではそのようには考えられていないようです。

井上直樹韓国・日本の歴史教科書の古代史記述日韓歴史共同研究報告書(第2期)、2010年3月、429-434頁http://www.jkcf.or.jp/history_arch/second/4-16j.pdf 

準王の時にはやく帰化し西部国境に勢力を置いていた燕人衛満が国を開いた —  震檀学会『国史教本』 & 1946年

衛満が前2世紀に政権奪取 —  『高等 最新国史』 & 1968年

遼東からきた衛満が政権を奪取 —  李弘稙『高等 国史』 & 1973年

遼東からきた衛満が政権を奪取 —  邊太燮『高等 国史』 & 1973年

前2世紀に中国から移動してきた衛満が準王を追い出し建国 —  文教部『中学 国史』 & 1975年

北中国方面にいた移動民の勢力の代表である衛満が古朝鮮の準王を追い出して王となった —  文教部『高等 国史』 & 1977年

前2世紀に中国から移動してきた衛満が準王を追い出し建国 —  国史編纂委員会『中学 国史』 & 1979年

前2世紀に中国から移動してきた衛満が準王を追い出し建国 —  国史編纂委員会『中学 国史』 & 1982年

前2世紀初に古朝鮮北方から移住してきた勢力を代表する衛満が準王を追い出し王となった —  国史編纂委員会『高等 国史』 & 1982年

西側地方で勢力を拡大させた衛満が準王を追い出して古朝鮮の王となる —  国史編纂委員会『中学 国史』 & 1996年

前2世紀初に古朝鮮北方から移住してきた勢力を代表する衛満が準王を追い出し王となる —  国史編纂委員会『中学 国史』 & 1996年

中国からの流移民を古朝鮮西方に安置させたが、そのなかでも衛満は準王を追い出し王となった —  国史編纂委員会『高等 国史』 & 1996年

--133.218.31.245 2018年1月8日 (月) 17:39 (UTC)[返信]