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ノート:ヴィクトール・フランクル

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「マルティン・ハイデッガーの体系を汲む」という表現は、なんとか修正できないか。フランクルがユダヤ人だったということを忘れてない?Mishika 2005年3月5日 (土) 02:36 (UTC)[返信]

『フランクル回想録―20世紀を生きて』を読んだ印象としてはフランクルは少なからずハイデッガーを尊敬していたように思いますよ。--Knownhappy 2008年4月19日 (土) 12:03 (UTC)[返信]

『神経症II』にも「実存分析はハイデガーに負うところが少なくない」といった内容が書かれています。--202.245.169.15 2008年10月7日 (火) 07:14 (UTC)[返信]
当該段落は『夜と霧』旧版を殆ど抜粋する形で書かれているようですが、そこには「体系的にマルティン・ハイデッガーなどの影響から少し距離をとったものであった。」との記述があります。何故この部分だけ全く逆の事が書かれているのか、不思議です。--125.206.91.98 2010年4月24日 (土) 09:05 (UTC)[返信]

この人はどこの収容所にいましたか?確かアウシュビッツに居たのは三日間だけで、とテレビで発言していたのは記憶していましたが。--東京大仏 2008年9月17日 (水) 08:12 (UTC)[返信]

テレージェンシュタット・アウシュビッツ・カウフェリング第三・テュルクハイムの4つだと思います。--210.167.171.63 2009年1月15日 (木) 23:22 (UTC)[返信]

あ、そうだったのですか。確かにこちらもテレージェンシュタットが何かと本人が語っていた辺りは覚えがありました。しかしそこからはどうも覚えが曖昧でして、どこだっただろうか…?と、首を傾げておりました。 当方のユーザーページのノートにも「ダッハウだったのでは」と意見を下さった方もおりましてそこはやや情報が錯綜している様子ですね。 まずテレージェンシュタット。ここはテレジン強制収容所の事ですね。ここは確実そうです。何故なら、NHKの「いのちの旋律」報道時だったと思うのですが、多くの収容者の写真の中にフランクル本人が混ざっていたわけでしたので。いやここはすいません、全く遅まきながら返答させて頂きました次第です。--東京大仏 2009年2月14日 (土) 09:51 (UTC)[返信]