ノート:ローマ帝国

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歴代皇帝[編集]

歴代皇帝を別ページ「ローマ皇帝一覧」に移させてください。 理由は  1.すべての皇帝を記載するとリストが非常に長くなると予想されること。  2.各皇帝から「一覧」へのリンクを貼り、各皇帝間の行き来を容易にしたい。 です。英語版wikipediaの「ローマ皇帝」関係の構成を見てください。 各皇帝の下に「前任者」-「ローマ皇帝一覧」-「後継者」という形の リンクが付いてあり、各皇帝間の行き来が大変スムーズになっています。 このやり方を日本版でも踏襲したいと考えています。皆様の御理解のほど よろしくお願いします。   Azu

ローマ帝国#帝政の開始の表は、ひょっとして塩野七生さんの著書からの転載ではないでしょうか。あの本にはラテン語をなぜか近世読み(あるいはイタリア語読み)することが多いという独特な特徴があるので、普通に資料をみて書いた場合に、ああいう形で読みをふることはないと思うのですが。。おもちの方、確かめていただけませんでしょうか。--Aphaia 2005年8月24日 (水) 20:15 (UTC)[返信]

確認したわけではありませんが、第一印象から見る限り白なんじゃないかなぁという感じがします。
「プリンチェプス」という表記は確かに塩野氏に特徴的なものだと思います。しかし塩野氏に依拠していた場合「インペラトル」を「インペラートル」とは書かず「インペラトール」と書くはずです。「インペラトール」表記は塩野氏特有の表記ではありませんが、氏の特徴であることは間違いありません。ですのでキチンと調べたわけではありませんがその一点から転載ではないのではないかと思いました。
尤もならどこからこんな中途半端な表記が出てきたのかという疑問もありますが。。tanuki_Z(sysopは偉くない) 2005年9月15日 (木) 11:12 (UTC)[返信]

ローマの発祥と地中海の内海化[編集]

事実に反する様に読めてしまう一文を削除しました。

ローマの内海化はポエニ戦争終結の紀元前146年頃、ローマの発祥はちょっと正確な年代を覚えてはいないのですが、帝政の開始よりは前であったかと。どちらにせよ、帝政開始時にはゲルマニアを除き、大方の領域は固まり始めており、「紀元前27年- 476年(西ローマ滅亡)、1453年(東ローマ滅亡)の間に、ローマ市に発祥し、ローマを中心として地中海を取り囲み、その周辺一帯まで及ぶ広大な領域を支配した」という以前の記述には語弊があります。ついでに言いますと、コンスタンティヌス帝(だったと思います)以降はローマが中心とは限らなくなってきます。 コータ 2005年9月4日 (日) 01:40 (UTC)[返信]

ローマ帝国とビザンツ帝国[編集]

ビザンツ帝国滅亡までローマ帝国が存続したとするのは如何なものでしょうか。いくらローマ帝国を名乗っていたとしても、ビザンツ帝国はローマとは別物ではないでしょうか。西ローマが滅んだ事によって、地中海世界の一体性は失われ、ローマ帝国も終焉を迎えた、とするのが妥当ではないでしょうか。というか、そもそも西ローマ滅亡後のビザンツ帝国の事を「ローマ帝国」とは言わない気がします。 コータ 2005年9月4日 (日) 02:05 (UTC)[返信]

ちょっと調べてみましたところ、ギボンはビザンツまでローマ帝国として扱っているものの、最近は西ローマ滅亡以降、明確にではないものの、何となくローマ帝国は終わった、という見方の様です。というか、始まりと終わりの年号を書くのは無理みたいです。 コータ 2005年9月6日 (火) 10:39 (UTC)[返信]
コメントアウト部分にて、「6世紀にはユスティニアヌスが再統一に成功していることなどからみても、西ローマ滅亡後も地中海世界の一体性が維持されており、コンスタンティノープルを中心に地中海の交易ネットワークは存続していた」との事ですが、「地中海での交易ネットワークの存続」と「地中海世界の一体性の維持」は別物かと思います。ユスティニアヌスが統一したのはゲルマン的な西地中海とヘレニズム的な東地中海であり、コスモポリタンな「古代地中海世界」ではなかった、『西洋古代史研究入門』や、ミネルヴァの『西洋の歴史』あたりを見ると、そんな風に思えるのですが。むしろ、ユスティニアヌスによる再統一が短期間しか続かなかった事が地中海世界の一体性が失われていた事の証左、とも思えてくるのですが、いかがでしょうか。 コータ 2005年9月25日 (日) 16:08 (UTC)[返信]
あなたは西ローマ帝国滅亡を持ってぷっつりと切れたかのような書き方をされたようですが、ビザンツ史の概説書・専門書をお読みにならないで書かれてはいないでしょうか?国内で出版されている概説書・専門書(東ローマ帝国#主な日本語の参考文献)を読む限り、「ローマ帝国」からいわゆる「ビザンツ帝国」への変遷は古代末期から7-8世紀にかけて徐々に進行したというのが一般的です。例えば、富山大学の小林功助教授の講義録[1](PDF)でも、最後の部分で7世紀のビザンツについて「古代末期の国家の在り方をほぼ受け継いでおり、大きな断絶を確認するのは困難」とされています。もし、これらを読んで(ビザンツに関して言及する以上、当然読んでおられると思いたいのですが)書かれているのなら、色々な説が学問上あるでしょうから別に構いませんが、まったく踏まえていないのであれば、それはどうかと…。


まず、誤解されているようなので最初に申し上げますと、ローマ陥落の前と後で地中海世界全体に大きな断絶があるとは考えていません。水面下で進行しつつあった地中海世界の一体性の喪失が西ローマ滅亡を機に加速した、とそういう含みを持たせて書いたつもりなのですが、以前から進んでいたという事に触れずにいきなり「加速した」とだけ書いたのでは、確かに分かりにくい書き方だったかもしれません。また「一応の区切りとしている」ぐらいの書き方の方が良いかとも思ったのですが、迂遠過ぎるかという気がしたもので。その様な訳ですので、ローマ帝国の変容が徐々に進行したという認識は持っております。まずはこの点をご理解下さい。また典拠となる文献の有無をご質問の様ですので、お答え致しますと、確かに「ビザンツ史」専門の概説書や研究書はあたっておりません。あるのは概説書とも言えない講談社現代新書と古代から中世にかけての広い概説書です。広いとは言え、『西洋古代史研究入門』(東京大学出版会 1997)は史学科の一年生が読まされる本(少なくともその一つ)であり十分な内容だと思います。『西洋の歴史』(ミネルヴァ書房 1988)もミネルヴァなだけあってポイントを押さえた良い本だと思います。ローマおよび古代の終了という大きなテーマについてはそれぞれそれなりに頁を割いて代表的な見解を紹介していますが、確かにローマ史としての観点からのみでビザンツ史から見てどうかという点についてはあまり考えていませんでした。そこで逆にお聞きしたいのですが、ビザンツ史の観点から見て、西ローマ滅亡後のイタリア、ガリア、スペイン、北アフリカといった地中海西側は同胞たるローマ市民に帰属すると考えられていたのでしょうか。それともゲルマン化した西側は捨て置き、東ローマ帝国こそが唯一ローマであると考えてしたのでしょうか。また、交易網が存在したという事と地中海世界の一体性とはイコールで結ばれるべきなのでしょうか。ことさらに古代ローマ志向の強かったユスティニアヌス帝の死後、再々「統一」が為されなかったのは単純に国力に帰される問題なのでしょうか。危険を冒してまで行う課題ではなくなったという事でしょうか。なにぶんビザンツ帝国に関する限り、私の理解は一般教養止まりなもので、ご教授頂けたらと思います。ただ以上についてはコメントアウトされている部分に関する事ですので、本来の記述内容に関しては現状の、つまり「保留の代替」となっている記述を正式にする、という方向で良いのではないかと思います。ところで、冒頭の「あなた」という二人称は時と場合によっては非常に無礼な言い方になる場合がありますので、今回の様な省略しても問題の無い場合は無理に二人称を使う必要は無いと思います。
まず、二人称の件に付いては他意があったわけではないので、その点はご了承下さい。誤解を与えたのだとすれば、大変失礼を致しました。さて、いわゆる「古代地中海世界」の崩壊については、ご承知のとおり突然起きたものではなく4世紀からラテン文化のギリシャおよびオリエント文化圏への影響の低下、ローマ帝国の東西分割に見られる政治的分裂などで始まり、ユスティニアヌスによって政治的に一時統合されるたものの、7世紀以降のアラブ人・スラヴ人・アヴァール人・ブルガリア人などの侵入によって最終的に失われた、とするのが一般的でしょう。交易網以外の面でも統一性がまだある程度は残存していたことは、旧西ローマ領内のゲルマン系王国は「コンスタンティノポリスの皇帝の代理」という名目で統治していたこと、ローマ教皇と言えどコンスタンティノポリスの皇帝の臣下であり、7世紀の教皇マルティヌス1世のようにコンスタンス2世によって逮捕され、クリミアへ流刑に処せられたこともあったように政治的にも「ローマ皇帝」の影響力は残っていたことなどで判るかと思われます。崩壊したのはイスラムの侵攻で東ローマの国力が低下し、地中海全体の覇権の維持が困難になったこと、そしてカール大帝の戴冠に象徴されるように、完全にラテン-ゲルマン文化圏が政治的に独立したこと…それこそピレンヌの「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」になってしまいますが、これがまあ現代における一般的な解釈でしょう。ですから、あの記述の仕方では476年をきっかけに地中海世界が突然崩壊してしまったような内容になってしまうのでは?と申し上げた訳です。「保留の代替」くらいの記述でよいかと思われます。それと、ビザンツ帝国では「ローマ帝国は地上における唯一の帝国であり、かつてローマ帝国に属していた国々を全て支配するのは当然」というのが国是でした(オストロゴルスキー『ビザンツ帝国史』P47、尚樹啓太郎『ビザンツ帝国の政治制度』P2-3ほか)。もちろん、時代を経るにつれて現実には無理な状況になり、歴代皇帝たちは現実に柔軟に対処していきましたが、一方で最後までこの理念は捨てられた訳ではなく、大阪市立大の井上先生が引用されているように、クリスマスの儀式においても([2])、「どうか、ローマ人のよろこびとほこりであるしかじかの皇帝によって、違った言葉の夷狄の民が、信仰において、同じ言葉を話すようにならんことを!)……」と、いつかは周辺民族を平定し、キリスト教(東方正教会)の教えの下に統一することが祈られていました。また、実際に9世紀まではシチリアを、11世紀までは南イタリアを領有していたこと、11世紀のバシレイオス2世は晩年にシチリア奪還を計画し、12世紀のマヌエル1世コムネノスに至っては実際にイタリア遠征を試みるなど具体的な政治・軍事行為でも西方領土を奪還する意図を持っていたことは明かです。ビザンツ帝国は、確かに古代のローマ帝国とは大きく違う点もありますが、「ローマ帝国」という要素を念頭に置くことなしにビザンツ帝国一千年の歴史を語ることは絶対にできないと言うのもまた事実であり、安易に「ビザンツはローマ帝国ではない」とも言い切れないのではないでしょうか。
便宜上、西ローマ帝国、東ローマ帝国/ビザンツ帝国と名付けてはいるけれど、ローマ帝国の東西分裂というのは別々の国家に分かれたわけではなく、一つの国家を分割統治しているだけ。西ローマ帝国滅亡というのはローマ帝国の西部を放棄したにすぎず、コンスタンティノポリス陥落まではローマ帝国(厳密にはローマ共和国だが)でしょう。Chaki 2005年10月3日 (月) 10:28 (UTC)[返信]
と言ってしまえば簡単ですが、じゃあ古代のローマ帝国と中世のローマ帝国が同質のものか?と言うとそれは…単純に「ローマ帝国だ」というのも、また安易な結論かと。
複数の見解がある件については、無理やりどれかに結論付ける必要はないと思います。説として複数ある旨の記述があれば問題ないでしょう。本文ではローマ帝国という継続した国体を扱っていますので、ビザンツ帝国の滅亡の方が妥当ではないかと思った次第です。ただここの記述や東ローマ帝国の記述で、便宜上はともかく正式な国号が「ローマ帝国」であるという部分は抵抗ありますが。。。Chaki 2005年10月4日 (火) 02:23 (UTC)[返信]

抵抗があるとおっしゃられても、ビザンツの正式国号が「ローマ帝国」(むろんギリシャ語で、ですが)であった、ということは渡辺金一、井上浩一、尚樹啓太郎と各専門家の著作にもかいてあることですし、当時の史料でもそう書いてあるようですし…([3])。

正式という表現をされているので、それならば正式名称はSPQR/Senatus Populisque Romanum(元老院ならびにローマ市民)、国名として表現するならRes Publica Romana(ローマ共和国)ではないかと。Chaki 2005年10月5日 (水) 07:01 (UTC)[返信]

ポイントは、ビザンツ帝国と同様にローマ帝国という名称すら、後世の人間が歴史を振り返って意図的に命名した「歴史学用語」であり、決して同時代的な正式名ではない(日本史における江戸時代時点の「○○藩」(正式には「××家御家中」とか「織田信長」(正しくは「織田弾正忠信長」)のような人名表記と同じ)という事でしょう。古代の都市国家ローマの時代から継続し続けたSPQRやRES PUBLICA ROMANAのある段階の政体を後世の人間がローマ共和国と呼び、ローマ帝国と呼び、ビザンツ帝国と呼んでいるに過ぎない。ただ、「カロリング朝フランク王国によるローマ帝国」と「ローマ大司教」の合体した政治秩序の系譜を引く西ヨーロッパ諸国の視点で見るか、東方正教会の影響下にある東ヨーロッパの視点で見るかで、SPQRのいつまでを「ローマ帝国」と呼ぶべきかが微妙にずれているとは言えると思います。西の視点からは西の皇帝権がオドアケルによって廃位された時点を持ってそう呼ぶ傾向はありますが、それはかなり恣意的なものを感じます。実態はむしろ、7世紀を通じて漸進的にSPQRの「ローマ帝国」から「ビザンツ帝国」への変質が進んだというのが現在の歴史学の視点からは妥当と感じられます(「岩波講座・世界歴史」など参照)。ちなみにピレンヌのテーゼは当時はかなり画期的な視点ではありましたが、現在では必ずしも全面的には支持されていないようです。

ですから、 「政権の中核は最初から最後までSPQR又はRES PUBLICA ROMANUMまたはそのギリシア語形(これを是非知りたいです)を称し続け、その版図をIMPERIUM ROMANUMと称した広域政権の歴史的一時期を後世から見て「ローマ帝国」と呼んでいる。それは広域のIMPERIUM ROMANUMが後世皇帝と呼ばれるプリンケプスの集権的指導体制に入ってから中世社会の成立に伴って漸進的に後世ビザンツ帝国と呼ばれる体制に移行するまでの期間である。」 というような表現が、私は妥当ではないかと思うのですが。--ウミユスリカ 2005年10月5日 (水) 08:15 (UTC)[返信]

英語版ウィキペディアその他を読む限り、ギリシャ語では、"Basileia tôn Rhômaiôn"だったみたいですね。この意味ですが、"Rhômaiôn"が「ローマ」を示しているのは言うまでもありません。"Basileia"はギリシャ語で皇帝を意味する語句が「バシリウス(中世ギリシャ語ではヴァシレフス)」(古代ギリシャでは「王」という意味でしたが、ヘラクレイオスが「キリスト信者のバシレウス」と称してからは皇帝の称号になっている)だったことを考えると、そこから派生した語句でしょうから、ダイレクトに「ローマの皇帝(王)の国」という意味のようです("tôn"は冠詞)。ちなみにギリシャ語版ウィキペディアでは「帝国」の部分は「Αυτοκρατορία」になってます。これは杉村貞臣『ヘラクレイオス王朝時代の研究』という専門書で7世紀の皇帝の称号を分析しているのを読むと、ラテン語の「インペラートル」がギリシャ語では「アウトクラトール」に置き換えられていますので、「アウトクラトール」が支配者にあたる語句です。「Αυτοκρατορία」は、おそらくそれと同じ意味の言葉でしょう。ということで、ギリシャ語では「SPQR」でも「RES PUBLICA ROMANUM」でもなく、強いて言うなら"Imperium Romanum"のギリシャ語直訳形だったと言えるのかもしれません。だから「正式名称は『ローマ帝国』」が出てくるのですが、ラテン語の名称にこだわる人はこの時点で「ローマ帝国じゃない」と仰るかもしれませんね。

とりあえず、ビザンツ帝国については、

  1. 日本で通常「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」などと呼ばれている国家においては、国民や政府自体は1453年に至るまで古代の"Imperium Romanum"の後裔だと考えていたこと。この国家における宮廷儀式・軍事行動・法体系・官位などは、この前提がないと説明できない。
  2. とはいえ、古代に地中海地域を支配し、ラテン語を公用語としていた"Imperium Romanum"とは、年月を経るにつれて言語・文化・宗教・政治体制(皇帝に「君主」としての要素が強い)などの面で異なっている点も多いため、一般的には"Basileia tôn Rhômaiôn"を「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」などと区別して呼んでいる。

ということだけは押さえておくべきでしょう。ちなみに、ビザンツ学者オストロゴルスキーは「ギリシャ人のキリスト教ローマ帝国」と表現し、この3要素のどれが抜けてもビザンツを説明することは出来ないと言っています。それと、日本では西欧経由でヨーロッパ史が受容されたので、ウミユスリカさんが挙げておられる西欧側の考え方を採る傾向が強い(古代ギリシャ・ローマ文明の後継者は西欧であって、東欧やバルカン半島は異質な存在という風にしたがる向きがある-近藤和彦編『西洋世界の歴史』 山川出版社より井上浩一「ビザンツと正教世界」より)ことをお忘れなく。あともう1つ。お願いですから、ビザンツを語る以上はビザンツの専門書を1冊でいいからお手にとってから書いていただけると幸いです。

暫く見ない間に随分議論が進んでいた様で。割り込む形となって恐縮なのですが、「ローマ帝国」の内容としては現状のままで問題ないという事でよいでしょうか。個人的には、冒頭の総論として必要な情報は既に盛り込まれていると思うのですが、如何でしょうか。 コータ 2005年10月6日 (木) 16:20 (UTC)[返信]

参考文献について[編集]

『ローマ人の物語』を参考文献に並べる事は適当でしょうか。よく調べて書いているとは思いますが、註の付いていない、言い換えれば真偽を判断するための情報を与えられていない本を参考文献としてしまうのは問題があるのではないでしょうか。 コータ 2005年9月18日 (日) 12:44 (UTC)[返信]

「ローマ司教座と結託」の表現について[編集]

コータさんは「ローマ司教座と結託」の表現がおかしいとして修正されました。私はこの段階まではまだローマ教皇権はそれほど確立したものではなく、それ以前から徐々に進展しつつあったフランク王権との結びつきが一気に高い段階に達して後のローマ教皇権の確立に格段に近づいた事件としてこの表現をとったわけです。私としてもちょっと極端な表現だったかなと思うところもあったわけですが、単に「教皇レオ3世より戴冠され帝位に就いた」では当時から確立した教皇権が存在したように見えてしまいます。このあたりの評価と表現に関して、コータさんを含め、参加者皆さんのご意見を伺いたく存じます。--ウミユスリカ 2005年11月6日 (日) 00:37 (UTC)[返信]

修正の理由としましては三点ほど。まず、「結託」という言葉は悪い意味で使われる事が多く、価値判断を含んだ記述となってしまう事。また「司教座」という言葉は文字通り「司教の座」であり「司教の座についている人」を意味する言葉では無い事。この二点につきましては単純に細部の修正になっております。最後に、所謂、五本山の間でのローマの優越についてですが、これに関しては議論の余地が大いにある事は認識しております。しかし、ペテロの後継者としてのローマ教会がコンスタンティノープルを始めとする他の教会に対してどの程度の優位性を持っていたのかはさておくとしても、一般的にローマの優位性が明確でない時期についても、ペテロの座としてのローマ司教の後継者は教皇と呼ばれており、レオ3世についても教皇と記述される事が圧倒的に多いと思います。また「ローマ帝国」の項目内での記述であり、慣例に反した記述を用いてまで、教会内での優位性の問題をあえて盛り込む必要も無いと考えたのですが、いかがでしょうか。 コータ 2005年11月6日 (日) 02:22 (UTC)[返信]
確かに「結託」という表現はまずかったですね。もうすこし中立性の高い表現を模索するべきでした。それから司教座との表現をとったのは「司教」に統括された組織との意味合いを持たせたかったことによります。さて、教会内の優位性の問題を織り込むか否かですが、この点が一番のポイントになりますよね。ローマ総主教はペテロの後継者としての権威を有したとはいえ、Papaと呼ばれた総主教達の内の一人に過ぎなかったわけです。それが西方教会を組織化しつつ権威の向上を図ってローマ皇帝権から自立の方向を示していき、とうとう自前のローマ皇帝を擁立することで完全に自立化したというシェーマは当該箇所の解説としては非常に重要なポイントになると思うのです。この問題は、西欧中心の歴史著述では比較的マスクされがちな構図なので、歴史を相対化する上でも是非織り込んでいきたいと考えたわけです。けっこう重要な問題だと思いますので、是非多くの人のご意見を伺ってみたく存じます。--ウミユスリカ 2005年11月6日 (日) 06:58 (UTC)[返信]
組織としての意味合いを出しつつ、優位性を含まない表現を探すとすると…無難な所では「ローマ教会」あたりでしょうか。ちょっと弱いかもしれませんが。 コータ 2005年11月6日 (日) 14:17 (UTC)[返信]


Imperium Romanum[編集]

「ローマ帝国」は、Roman Empire(英語)と同じ概念であり、「帝政のローマ国」です。これらは指摘するまでもなく Imperium Romanum(ラテン語)とは概念に差があります。

本稿は基本的には「ローマ帝国」について説明を行うべきなのにもかかわらず、現在の記述は "Imperium Romanum" を説明しようとしており、本稿の題名と齟齬が生じています(それでは「ローマ帝国」は「帝国」ではないことになってしまいます)。--Kkddkkdd会話2014年3月28日 (金) 14:18 (UTC)[返信]