ノート:挹江門事件

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

全面書換[編集]

あまりに滅茶苦茶な記事なので、事実に即して、全面書換を行いました。ただし一般には「下関埠頭事件」と呼ばれるものは存在しませんので、この題名は不適切です。(下関埠頭と挹江門は1キロは離れており、「場所」のイメージも全く異なります。例えて言えば、東京駅附近で起きた事件を「皇居前広場事件」と呼ぶようなものです)

もし書くとすれば、「下関埠頭における日本軍の捕虜殺害事件」を書くのでしょうが、これにしても、「下関埠頭事件」と呼ばれることはありません。本記事は、改名あるいは削除が適当かと思います。あえてこのまま存続させるのでしたら、記事内容を「日本軍の捕虜殺害」の記述に置き換えることにしたいと思います。ゆう(matunami) 2007年5月19日 (土) 18:27 (UTC)[返信]

表題と乖離させる冒頭解説に据替えて故意に無茶苦茶な全面改稿になっています。改名、削除なり正式に提案されたほうがスマートだと思いますよ。「日本軍の捕虜殺害」に絞ってしまいたい性向も少し自重を求めたいところです。Soular 2007年5月20日 (日) 20:31 (UTC)[返信]

百科事典は、「既に広く使われている言葉を解説する」ところです。勝手に「造語」して、「独自の研究」を行うことは、Wikipediaの趣旨に反します。
ちなみにネットで「下関埠頭事件」を検索しても、1件もヒットしません。要するにこれは、この記事を作成した方の「造語」です。
さて、「事件の内容」がどういうものなのか、この文章からは極めてわかりにくい。どうやら、「南京陥落前に」「下関埠頭における大量死」が「既に発生していた」という「事件」らしいのですが、そんな「事実」は存在しません。存在しない「事実」について、空想で記事を書いても仕方がありません。
よってこの記事は、改名もしくは削除が適当である、と思います。あまりに趣旨不明確、事実の間違いだらけ、支離滅裂でしたので、私はせめて「事実関係を正確に」しようと思ってあのような編集を行ったわけです。それなのに、あなたはなぜ私の記述をリバートしてまであんなとんでもない記述を復活させたのか。あなたの説明では全くわかりませんでした。


私が削除した部分を復活した以上は、あなたはこの復活部分について全面的に責任を負う覚悟がある、と理解します。以下、何点か「質問」を並べますので、どうぞ、ご自分のリバートに最後まで責任をお持ちください。
1.そもそも、「下関埠頭事件」とはどのような「事件」なのでしょうか。「誰が、いつ、どこで、どうした」のか、具体的な説明をお願いします。
2.「12月13日、南京陥落の際に日本軍が入城するときには既に下関埠頭(「挹江門」ではありません)には1000体ほどの死体の山があった、と言われる」とありますが、そう「言」っている、信頼できる出典を教えてください。あなたが私の「挹江門」の記述をわざわざ「下関埠頭」に変えたことを、改めて確認しておきます。
3.「蒋介石督戦隊による射殺」とありますが、李宗仁回憶録など当時の文献では、単に「防守部隊」となっていたと思います。これを「督戦隊」と断定する根拠、およびその信頼できる出典を教えてください。
4.「督戦隊が毛沢東の指揮下にあり、唐生智からの命令が無視されていたという説がある」とありますが、私はそのような「説」の存在を知りません。Wikipediaは、ほとんど誰も問題にしないようなマイナーな説を取り上げる場所ではないと思いますし、もしそんな説を取り上げるのでしたらそれなりの扱いがあるでしょう。この「説」の出典、及び、この「説」が「百科事典で取り上げる価値のある、十分根拠のある説である」という根拠のご説明をお願いします。
これだけのとんでもない記事になりますと、「質問」を作ったらキリがなくなります。とりあえずはこのあたり、よろしくお願いします。ゆう(matunami) 2007年5月21日 (月) 21:54 (UTC)[返信]

両論併記[編集]

まず、議論の前に事実関係の認識を一致させなければなりません。事実関係の認識が一致できない場合はそれぞれの併記が妥当です。 そして、その事実関係を基礎にして論争、判断が必要であると思います。 挹江門に死体の山があった、そして、下関埠頭の揚子江岸に死体の山が浮いていた。ともに事実です。下関埠頭の死体の山は南京大虐殺の証拠写真としてたびたび引き合いに出されるものですから、これを抜きにして下関事件(下関虐殺)を語ることは不可能です。したがって、本記述は事件そのものを記述するためのものではなく、その背景をハイライトする目的で起案したものです。

まずはこれらの発生原因を歴史研究の中から明確にしていかなければならないでしょう。 次に、それぞれの死体の山は民間人だったか軍人だったか。これは軍人であり、軍服を着ていたというのは下関埠頭の死体の山の写真の分析から明らかです。 さらにここで述べているのは、この下関埠頭の死体の山を基にしたfake伝説が下関虐殺の核になっており、下関虐殺の伝説肥大化の背景を探る上で大変に重要なことだということです。大事なことは、下関虐殺の噂は3段階を経て別の事件を混成しながら出来上がっていったということです。したがって、事件を切り分けてしまうと噂の成長過程が見えなくなってしまいます。そして、それぞれの事件、事実を核にながらなぜ下関虐殺と言われるまでに至ったか、下関虐殺(と定義される事件)は本当にあったのか、虐殺されたのは民間人だったのか、軍人のみだったのか、或いは軍人と間違われた民間人が混じっていたのかについて議論を深めて行くべきでしょう。その際に、幕府山虐殺(事件?)にも並行して触れていく必要があるでしょう。 そして唐生智ですが、その後の経歴を見て下さい。彼は当時、蒋介石から南京の防衛を任されたものの、国民党共産党混成軍のうちの共産党軍に属していたことは容易に想像ができます。一般論としては唐生智が明確な撤退命令を出さなかったとされていますが、もともと彼は国民党ではないのですから、撤退時の混乱により積極的な関与をしていた(混乱に拍車をかけていた)ことさえ疑われるわけです。「明確な撤退命令を出さなかった」という表現は単なる瑕疵、過失に過ぎないという表現であり弱過ぎるでしょう。ここは唐生智による重大な故意、積極的な関与を示唆する表現が必要です。--210.202.35.48 2007年5月22日 (火) 02:44 (UTC)[返信]

補足しますが、次のような記述があります。 挹江門における死体の山(ダーディン記者の報告)から下関埠頭の死体までが一夜の事件で起きたわけです。

唐生智は撤退を決定し、退却命令を出した。ところが命令が全軍に徹底する前に唐生智は対岸に逃げてしまい、指揮官に見捨てられた支那将兵はパニック状態で下関に殺到したり、あるいは安全区に逃げ込んだ。
 下関の手前には挹江門があり堅く閉ざされていた。敗兵たちはベルトやゲートル、服を引き裂いて綱を作り城壁外に降りたが、あせって墜落死する者もいた。しかも、ここには支那軍の督戦隊(自国の兵隊を射殺する監視部隊)がいて逃亡兵を銃撃した。
 たどりついた下関埠頭でも船を求める市民や将兵の修羅場だった。
 乗れなかった兵は船に発砲し、乗れたとしても定員オーバーで沈没し、群集におされ揚子江に転落する者もあった。

この記述によれば最初の(12日夜の)死体の山には国民党軍の死体と市民の死体が混ざっていたとしても不思議ではありません。 次に幕府山に関する事件ですが、次のような記述があります。これは、17日の夜の出来事です。

12月17日の夜、第65聯隊は幕府山の4,000人の捕虜を夜陰にまぎれて開放することになっていた。処刑命令がでていたが逃げたことにして済ませようとしたのだ。18日午前零時すぎ、まず一陣の300人を船に乗せ漕ぎだしたところ、対岸の日本軍が発砲してきた。闇の中を近づく舟の群れを敗残兵の脱出とみて攻撃してきたのだ。すると待機していた残りの捕虜達が猛然と暴れだした。彼らは彼らで処刑のために連れてこられたと誤解したのである。捕虜達は日本兵に襲いかかり、7人が殺された。万一に備え配備してあった機銃が使われ銃殺になってしまった。明るくなってみると死体は1,000を越えていた。

したがって、これらの実際の事件が複数混同され、下関虐殺の噂が出来上がっていったと考えられます。もちろん、それぞれの事実の検証のために傍証を集めたり掘り下げたりするべきであることは言うまでもありません。--210.202.35.48 2007年5月22日 (火) 04:59 (UTC)[返信]


う~ん。大変申し訳ないのですが、要するに何をおっしゃりたいのか、さっぱりわかりませんでした。
私が前回提示した問題点は、「「下関埠頭事件」という言葉自体、最初のライターさんの勝手な造語である。これは「項目」として、百科事典にはふさわしくない」「記事の内容もにも問題が多く、到底記事として成立しえない」といったことでした。
この提起にほとんど答えることなく、否定論者冨澤氏ばりの抽象的な「南京大虐殺発展論」を展開されても困るのですが。ここは「記事内容」について議論する場であり、「南京大虐殺」について議論する場ではありません。


今の問題は、そもそもこの項が、「記事」として成立しうるかどうか、ということです。私は、「下関埠頭事件」という言葉自体、最初のライターさんの「造語」であると考えられることを指摘しました。繰返しますが、百科事典は、「既に一般的に広まっている言葉」について解説するところであり、「勝手な造語」を行う場所ではありません。この点については、コメントはなかったものと理解します。
そして、この記事内容から、IPユーザーさんのおっしゃるような「南京事件発展史論」的なことを読み取るのは不可能です。また、IPユーザーさんの言は一般に認められた見解であるとは言えず、既に「独自の研究」に近いレベルに達しているように思います。少なくとも「百科事典」にそのまま掲載するのがふさわしい内容ではないでしょう。
ゆう(matunami) 2007年5月23日 (水) 21:35 (UTC)[返信]
さて私は、この記事内容を、「あまりに趣旨不明確、事実の間違いだらけ」と評価しました(折角少しはまともに書き直してあげたのに、それをわざわざリバートして元に戻す方がいらっしゃるんだもんなあ(^^; 現在の記事内容について、ちゃんと責任をとってくれるんでしょうね?)。その確認のためにいくつかの質問を行ったのですが、それに対してIPユーザーさんがどのように回答しているかを見ておきたいと思います。
1.そもそも、「下関埠頭事件」とはどのような「事件」なのでしょうか。「誰が、いつ、どこで、どうした」のか、具体的な説明をお願いします。
→結局、IPユーザーさんのお答えからは、よくわかりませんでした。どうやら、「挹江門における死体の山(ダーディン記者の報告)から下関埠頭の死体までが一夜の事件」のことのようなのですが、その「三つの事件」のうち「下関埠頭」を舞台にしているのは、「下関埠頭の大量の死体」だけですね。記事タイトルに偽りあり、です。どちらにしても、この記事には「定義部」すらなく、この記事からそのようなことを読み取ることはできません。


2.「12月13日、南京陥落の際に日本軍が入城するときには既に下関埠頭(「挹江門」ではありません)には1000体ほどの死体の山があった、と言われる」とありますが、そう「言」っている、信頼できる出典を教えてください。あなたが私の「挹江門」の記述をわざわざ「下関埠頭」に変えたことを、改めて確認しておきます。
記事のこの部分は間違いである、ということで合意が成立しました。


3.「蒋介石督戦隊による射殺」とありますが、李宗仁回憶録など当時の文献では、単に「防守部隊」となっていたと思います。これを「督戦隊」と断定する根拠、およびその信頼できる出典を教えてください。
→私は、「断定する根拠、およびその信頼できる出典」を求めました。ところがあなたの「回答」には、具体的な出典は何もありませんでした。よって、「出典を示すことはできない」と認識します。なお、「督戦隊」云々の引用文、検索してみたら、「2ちゃんねる」での氏名不詳氏の怪しげな書き込みそのままでした。


4.「督戦隊が毛沢東の指揮下にあり、唐生智からの命令が無視されていたという説がある」とありますが、私はそのような「説」の存在を知りません。Wikipediaは、ほとんど誰も問題にしないようなマイナーな説を取り上げる場所ではないと思いますし、もしそんな説を取り上げるのでしたらそれなりの扱いがあるでしょう。この「説」の出典、及び、この「説」が「百科事典で取り上げる価値のある、十分根拠のある説である」という根拠のご説明をお願いします。
→もう一度、記事の文章を読み返してください。「督戦隊が毛沢東の指揮下にあり、唐生智からの命令が無視されていたという説がある」です。記事の主張は、「督戦隊」なるものが「毛沢東の指揮下」にあって「唐生智」の命令に反したというものであり、唐生智が共産党と関係があったなどというものではありません。従って、ここは「督戦隊と共産党の関係」を説明すべきところであり、いくら唐生智のことを書いても仕方がないのですが。


以上、「題名自体が最初のライターの「造語」であり「百科事典」にはふさわしくない」「記事内容自体もおかしな記述だらけで問題でが多い」という私の主張に対しては、何ら有効な反論がなされなかった、と理解します。
ゆう(matunami) 2007年5月23日 (水) 21:35 (UTC)[返信]
以下は、おまけです。
1.まず、村瀬氏の写真です。あなたには本当に、「軍服を着ていた」「死体の山」が見えましたか? 私はいくら目をこらしても、そういう判断はできなかったのですが。撮影者である村瀬氏本人は、「軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平服の、民間人で、婦人や子供も交じっているようでした」と解説しているのですが、なぜ撮影者本人の言を無視するのでしょうか?
2.ダーディン、スティール、スミスは、「下関埠頭」で、多数の捕虜(二、三百人または一千人)が殺害される光景を目撃しています。それとは別の事件ですが、住谷盤根氏も「下関埠頭」のそばで、「千人足らず」の「捕虜が五人ずつ縛られて」「向こうむきに並ばせては、後ろから銃剣で突き刺」されている現場を見ています。また、例えば第33連隊が「処分」した捕虜3000人は、「下関」付近で殺害されたもの、と見るのが妥当でしょう。「下関における大量虐殺」は、間違いなく存在しました。
3.最後の「65連隊」の記述は、いにしえの両角業作手記、そのままですね。今日では「幕府山事件」の研究が進み、この「自衛発砲説」は既に否定されている、という認識でいたのですが。「暴動による偶発事件」ではなく、「周囲を機関銃で取り囲んでの一斉射撃」であったことが、小野賢二氏らの調査で今では有力な解釈になっています。殺害人数の断定はできませんが、当時の記録通りの「14000人」がひとつの有力説であり、「1000名」なんてことはないと思います。
どちらにしても、「幕府山事件」は当時ほとんど知られておりませんでしたので、これが「伝説」なるもののの一翼を構成した、と考えるのは無理があります。場所も、下関埠頭より数キロは下流でしたし。
4.唐生智が「国民党共産党混成軍のうちの共産党軍に属していた」という事実は存在しません。唐生智は当時、「国民党軍」として行動していました。なお、唐生智について検索してみたら、「1946年、国民党の上級将軍の中で唯一解放軍に身を投じた」という趣旨の中国語のページがヒットしました。しかし私は、いくら捜しても、唐生智が実はそれ以前から共産党員であった、とする資料を発見できませんでした。
IPユーザーさんにおつきあいしてつい暴走してしまいましたが、ここは「記事内容」について議論する場であり、「南京大虐殺」について議論する場ではありませんので、このくらいにしたいと思います。もし続きがしたければ、「思考錯誤」板にでもいらしてください。
ゆう(matunami) 2007年5月23日 (水) 21:35 (UTC)[返信]

典型的な混同の例として役に立つかどうか。 下関虐殺の伝説 出所が週刊ヤングジャンプということで、2次3次どころかそれ以上の伝聞を繰り返してこうなってしまったのでしょうが、完全に幕府山の事件と他の複数の事件を混同しています。集英社とて、全く根拠のないものからこういう漫画を出したわけではないでしょう。この漫画の元となる伝聞をどこかで取材により得た、つまり、この絵と同じ伝聞が既に存在していることを意味します。少なくとも14000人ほどの「軍人」の連行を「民間人」の連行に差し替えた元ネタが存在するわけです。あいにく、そのソースまでは行き着くことはできませんでしたが、南京事件と称される当時の回顧録の中に似たような話が散見されます。 一方、貴殿も言われるように、揚子江岸死体の撮影者である村瀬氏が、「軍服を着た者はほとんどなく、大部分が平服の、民間人で、婦人や子供も交じっているようでした」という写真が本当ならば、幕府山17日の写真ではなく、13日の方の写真であるということになります。幕府山の事件の写真なら軍服しかあり得ません。また、どうしても下関虐殺で民間人が殺害されたとしたいがために、幕府山における捕虜に民間人数千名が混じっていた、と、こちらは幕府山捕虜の事実関係の方をいじって民間人がいたことにしてしまう説も見られます。それと、ダーディンの見た捕虜または便衣兵の射殺はこれら二つの事件とはさらに別で、250人ほどではなかったですか?混乱なく平然と公然と行われていたので人数も多いとは考えられません。ダーディンの目撃に対する解説も、国際法上も記者等に見られてもかまわないと思われるもので合法的だという自信があったからこそ皆の見えるところで処刑した、と言われていますね。いずれにしましても、下関虐殺だか下関処刑だか、そして下関事件だか、は詳細に調べれば複数の事件であることは貴殿も含め、皆が一致するということでいいですね。

私の意見としては、裁判のシステムのように厳格にとまではいいませんが、せめて、議論の前に事実関係の認識を一致させるということは大事です。そしてそれから、その事実関係を基礎にして判断が必要であるということです。 やるべきことはあらゆる情報、データの列挙です。一連の事件を「事件」とか「処刑」と呼ぶべきか、はたまた「虐殺」と呼ぶべきかは裁判で言えば事実認定以降に行われる「判断」に含まれます。データ列挙の最中に拙速に「判断」を含める時期ではないと思われますがいかがですか? それと、唐生智ですが、Wiki内のリンクにあるように、1949年、湖南省の知事に命じられ、中国国民党革命委員会の委員、全国人民代表大会の常務委員を歴任した、ということですよ。事件前から共産党員であった事実が確認できないというのは証拠能力の評価では「物的な証拠がない」と言われるものです。しかし湖南省の知事に選ばれるような人物ですから「状況証拠」としては共産党のかなりの地位であったと考える方が自然です。端的に言って、共産党員でないわけがないじゃないですか。バリバリの国民党員だったら朝鮮戦争に送り込まれて人海戦術であの世に送られているはずです。--210.209.207.32 2007年5月24日 (木) 13:54 (UTC)[返信]

相変わらず、さっぱり要点がわかりません。あなたが「独自の研究」をしたいのでしたら、それを行う場所は、ここではありません。そして、あなたの論のような内容は、「百科事典」にふさわしいものではありません。
私は、「下関埠頭事件という言葉は一般的な言葉ではなく、そもそも記事項目として成立しえない」「記事を読んでも結局、どんな事件なのかさっぱりわからない」「記事の内容も間違いだらけである」という点を、繰返し問題にしました。これについて反論がないのでしたら、とりあえず緊急避難的に、せめて「事実関係」だけは正しい私のバージョンに、戻しておきたいと思います。
なお、最後の唐生智の部分、ちんぷんかんぷんです。誰も、「戦後になって共産党員になった可能性」を否定しているわけではないのですが。「1937年の時点で既にもう共産党員であったという資料は存在しない」というだけの話です。いずれにしても、記事内容がおかしい、ということでは合意が成立したと思います。また、目撃人数は、ダーディンは「200人」、スティールは「300人」、スミスは「1000人」と言っていますので、併記しました。
ゆう(matunami) 2007年5月25日 (金) 21:11 (UTC)[返信]

一応、このノートに記されているものを併記してみました。いかがでしょうか。偏りがあると思われましたら修正、加筆をお願いします。私の意見ですが、定義を明確にしないと議論の積み上げができません。用語の存在を否定してしまうと方向が定まらなくなり、混沌としてしまいます。事件研究が進めば個々の事件にもまた別の名前が付くようになると思います。--210.209.207.32 2007年5月26日 (土) 15:52 (UTC)[返信]

IPユーザーさんが、一生懸命にこの記事を何とかしようとしていることはわかりました。しかし、私の申上げた問題点は全く解決されておらず、相変わらず支離滅裂の状況です。以下、具体的に述べます。
1.この記事には、「定義部」がありません。普通の記事であれば、「下関埠頭事件とは、これこれこういう事件である」という記述が冒頭にきます。これがないので、どんな事件であるのかさっぱりわかりません。要定義。しっかりとした「定義」がなされないのであれば、やはりこの記事は、削除が妥当であると思います。
2.「また、この事件こそが、南京大虐殺の初期のモデルであり、その後に噂が拡大して現在の南京大虐殺論争に変貌していったとも言われている」。この記述に、根拠はありません。「独自の研究」の領域に達しています。削除。
3.「蒋介石軍督戦隊による射殺」→だから、「督戦隊」である、という根拠はありません。削除。
4.「12月13日、南京陥落の際に日本軍が入城するときには既に下関(シャーカン)埠頭には1000体ほどの死体の山があった、と言われる。つまり、下関埠頭における大量死は南京陥落前に既に発生していた」。→これまで述べてきたとおり、はっきりとウソですよね。「挹江門」に訂正。
5.「この際、射撃したのは督戦隊ではなく、挹江門の防守部隊であり、この防守部隊と退却兵が衝突し、双方に死傷者が発生したとも言われる」。→誰も「督戦隊」であると主張している方などいませんから、無意味。「この際、射撃したのは督戦隊ではなく」は削除。
6.「乗れなかった兵は船に発砲し、乗れたとしても定員オーバーで沈没し、群集におされ揚子江に転落する者もあった」。→要出典。信頼できる出典が存在しなければ削除。
7.「12月17日の夜に幕府山から下関埠頭に多数の捕虜の連行があった」。→「幕府山から下関埠頭に連行された」という事実はありません。殺害現場は下関から数キロ下流で、下関埠頭とは全く関係がありません。従って、「幕府山捕虜の取扱い」に関する部分は全削除。細かい問題点はきりがないので書きませんが、全体としても、おかしな部分が目立ちます。
8.「これが国際法上認められた処刑に相当するか違法なものであって虐殺に該当するかは議論が分かれる」。→「捕虜」を裁判なしに殺害することは、少なくとも「国際法上」は認められていませんでした。また、当時の南京に「便衣兵」(ゲリラ)が存在した、という事実もありません。削除。どうしても「議論が分かれる」と書きたいのであれば、もっと正確に。
・・・やっぱりこの記事、そもそも「記事名」自体からして「独自の研究」ですし、ここまで問題が多いと、いったん全削除が妥当であると考えます。ゆう(matunami) 2007年5月26日 (土) 22:40 (UTC)[返信]

こう言っては申し訳ありませんが貴方の目的は数ある事件を未定義にして混沌とさせることです。思想上の問題がありそうですので議論は平行線をたどるものと思われます。Wikiには貴殿の基準でいえば削除に相当する記事はたくさんあると思います。wikiは新しいメディアなのですから新しい使い方があってもいいのではないでしょうか。幕府山の事件の解明が進めば記事が肥大すると思いますので、そのときは独立分離が妥当になると思います。「8『議論が分かれる』と書きたいのであれば、もっと正確に」<貴殿がご存知の知識を書き加えればいいのですよ。そうやって発展させていくのがWikipediaです。常にベクトルは発展方向に考えて下さい。--210.209.207.32 2007年5月27日 (日) 03:56 (UTC)[返信]

私はこれまで、あえてリバートを行わず、あなたがどのように「記事」を改良するのか見守ってしましたが、結局、私の指摘した問題点に対しては、回答はなかったものと認識します。「定義」すらできない記事を存続させる必要はないと思います。具体的なお返事がなければ、もとの私のバージョンへの差戻しを行いたいと思いますので、ご諒解ください。ゆう(matunami) 2007年5月27日 (日) 06:54 (UTC)[返信]

ノートにおける貴殿の記述もだいぶ取り入れられ、両論併記になっているはずです。今後も両論併記でお願いします。記述の追加、注釈などの活用を進言します。--210.209.207.32 2007年5月27日 (日) 07:38 (UTC)[返信]

読者への責任をどう考えますか?[編集]

何だか気の毒になってきたのですが、やはり私としては、「読者に正確な知識を提供する責任」を第一に考えたいと思います。

まず、大前提の話。「百科事典」は、十分な知識を保有する方が、自分の知識を正確に読者に伝えるための場です。間違っても、十分な知識を持たない方が、「お勉強発表会」をする場ではありません。

さて、ここまでのあなたの加筆を見ていくと、明らかに知識が不十分であることがわかります。せいぜいネット情報程度の情報しか持たず、かつ情報を十分に整理することができず、その結果この記事は、何がなんだかわからない代物に「成長」してしまいました。

我々は、読者に対して、正確な知識を伝える義務があります。そして、この記事は、記事の体裁をなしていないばかりか、間違いだらけでもあります。「間違い」の点についてはさんざん指摘しましたが、もはや改善不能の域に達していると思います。何で「挹江門事件」や「幕府山事件」が「下関埠頭」と関係があるのか、さっぱりわかりません。ひょっとしたらあなたは、「南京」の地図を見たことがないのではないでしょうか。

以上、私としては、「読者に誤った知識を与えない」ことを最優先に考えたいと思います。それは、我々の読者に対する、最低限の責任であると思います。 ゆう(matunami) 2007年5月29日 (火) 11:39 (UTC)[返信]

一応、もう一度、問題点を指摘しておきます。

1.そもそも記事名が問題。Wikipediaは「一般に広まっている用語」を解説する場所であり、「独自に言葉をつくる」場ではない。削除あるいは改名提案が適当。

2.記事の「定義部」がなく、要するにどんな事件なのか、さっぱりわからない。

3.内容も、事実誤認が多い。例えば「幕府山事件」は「下関埠頭」とは何の関係もないし、「下関埠頭」に日本軍進攻前に「大量の死体」が存在した、という事実もない。

何度も言う通り、私は我慢してこの記事の「成長」を見守ってきました。しかし上の問題点は、いくらお待ちしても一向に解消されません。いったん私のバージョンに戻すことにしたいと思いますので、以降は、「ノート」で改定案を提起して、合意の上で編集を行うようにお願いしたいと思います。 ゆう(matunami) 2007年5月29日 (火) 11:39 (UTC)[返信]

なおあなたは、この記事が「成長途上」のものであることを認めながら、あちこちにこちらへのリンクを貼る、という無茶なことをしています。このような「間違いの拡大再生産」は、Wikipediaにとっては迷惑な行為でしかありません。この記事が「記事」としての体裁をなし、かつ正確なものになるまでは、どうぞそのような行動は慎んでいただくようにお願いしたいと思います。 ゆう(matunami) 2007年5月29日 (火) 11:39 (UTC)[返信]

Wikipediaの精神とは[編集]

matunami様、1番は間違っています。Wikipediaの説明では「Wikipediaは国語辞典ではありません。百科事典です。」とあります。極端な場合一週間前のテレビの中で言った言葉でもいいわけです。それと、「適切なタイトルが見つからない場合は説明調のタイトルであってもかまいません。」とあります。名前が適切でないと思った場合、説明のようなタイトルにしても良いわけです。matunami様とは思想上の食い違いが明確になっておりますのでお互いに批判めいた表現は控えることにしましょう。各事件そのものの存在は事実としてあります。貴殿に知識があるのであれば追記することもできるのです。貴殿の出典がかなり「南京戦史資料集」中国側資料に偏っていますのでそのこと自体は批判しませんが、貴殿にも編集権がある以上、併記、注釈を活用して別の論があることを積極的に投稿する方向で考えていただきたいと思います。それと、貴殿の場合削除の要求の出現率が明らかに多過ぎます。次回からは削除要求の数を数えましょう。私は削除要求を極力出しませんからこれは平等にお願いします。情報は集積する方向にエネルギーを要し、逸散する方向にエネルギーは要しませんから、削除方向は熱力学的に言えばエントロピーの増大(混沌さの増大)であって、知的作業の逆方向を示します。極力削除は求めず、追記を考えて下さい。情報の集積こそがWikipediaの精神であると思われます。--210.209.207.32 2007年5月29日 (火) 15:20 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

挹江門(ゆうこうもん)圧死事件、とかの改名はいかがですか?--Hare-Yukai 2007年5月31日 (木) 08:43 (UTC)[返信]

Hare-Yukai様転記ありがとうございました。さすが業界人。私が言わんとするところをきれいにまとめていただいております。こちらの版はmatunami様の言うとおり、一旦リバートして改名するのが妥当かと思います。どのように改名するかはmatunami様のご意見を数日お待ちします。--210.209.207.32 2007年5月31日 (木) 13:43 (UTC)[返信]
何がどうなったのかさっぱりわかりませんが、peace系への対応に追われてしばらく目を離していた間に、いつのまにかまともな記事になっているじゃありませんか。ほぼ私が書いた通りの内容ですので、異議はありません。
記事名は、「挹江門事件」でよろしいかと。一般的な名称ではありませんが、「間違いなく存在しているが、名前がない」事件ですから、「新たに名前をつける」こともやむえないでしょう。
IPユーザーさんの前レスに対してはいろいろといいたいこともありますが、当「記事」とは直接関係のない話なりますので、とりあえず自粛します。ゆう(matunami) 2007年5月31日 (木) 21:12 (UTC)[返信]
というわけで解決。私が貼った「中立的な観点」テンプレはとりました。また、「大量虐殺」カテゴリーはこちらにそぐいませんので、これもとりました。ゆう(matunami) 2007年5月31日 (木) 21:16 (UTC)[返信]
「挹江門事件」が項目名としてすっきりしており賛成します。項目名にそぐわない強引な全面改稿よりもHare-Yukai氏の実直スマートな改名提案が問題を解決に導いたようです。今後の編集にかかわらずとりあえず「南京大虐殺」カテゴリーもとっておきます。Soular 2007年5月31日 (木) 22:04 (UTC)[返信]
つまり、どうしても整合性の悪い部分を南京事件 (1937年)に転記し、挹江門事件が下関虐殺とたびたび誤認されるという趣旨を生かしたうえでこれを下関虐殺から除く、と記することで全趣旨が反映されると考えました。こんなところで宜しいでしょうか--Hare-Yukai 2007年6月1日 (金) 11:38 (UTC)[返信]

次なる展開へ[編集]

今回、私の稚拙な起案に始まり、Hare-Yukaiさんにはいろいろとご尽力いただき、ありがとうございました。私も21210.209.207.32転じてYude-TamagoにてID登録しましたので今後とも宜しくお願いいたします。 matunami様とは立場が異なるもののmatunami様の知見の蓄積は大変に参考になります。今回ちょと冒険しまして、北京語初級も顧みず稚拙なことを覚悟で唐生智の翻訳に挑戦してみました。matunami様を含め、近代史研究をなさっている方にごも役立ていただけましたら幸いと思います。まだ、中国語・英語羅列で整理が出来てないです。翻訳の正確さは保証しませんので間違いがありましたらどうぞご存分に加筆訂正をお願いいたします。--Yude-Tamago 2007年6月7日 (木) 19:07 (UTC)[返信]

なぜ挹江門を閉めてしまったのか[編集]

なぜ、南京市民と国民党軍の退路(避難路)である挹江門を閉めてしまったのかについていろいろと疑問があったのですが、以下のような記述を見つけました。rxhj.net(現在、スパムブロックされる)
「當許多難民向中山北路、中央路移動時,最后逃出南京的一部分國民黨官兵,蟻集在江岸上,未能脱險,此時深怕難民群妨礙他們,所以把挹江門、和平門兩道城門緊閉起來,以便于他們搶渡逃生。」
これによると、避難する群衆が河岸に集まり始めたので、国民党軍の退路が塞がれることを恐れて挹江門と和平門を閉じてしまったのだと書かれています。ただちにこれを信用するものではありませんが、参考にすべきことだと思います。 --Yude-Tamago 2007年7月29日 (日) 17:36 (UTC)[返信]