ノート:ディーウ沖の海戦

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英語版記事名について[編集]

翻訳元としている英語版記事名は要約欄に記載したen:battle of Diuではなくen:Battle of Diu (1509)ですが・・・。--K-iczn会話2015年5月28日 (木) 10:03 (UTC)[返信]

プロジェクトについて[編集]

本記事は、東大駒場で2015年夏学期第一タームに行われた英日翻訳ウィキペディアン養成セミナーのプロジェクトにより作られた記事です。さえぼー会話2015年5月28日 (木) 12:12 (UTC)[返信]

オスマン帝国の関与について[編集]

『エジプトのマムルーク朝の兵士は海戦の専門知識が欠如しており、ポルトガルは頻繁に攻撃をして、インドのマラバールの木材を奪っていたので、マムルーク朝のスルターンアシュラフ・カーンスーフ・ガウリーはオスマン帝国に支援を求めた。オスマン帝国のスルターンバヤズィト2世(彼の海軍は1492年のスペイン異端審問によって追放されたスペイン系のムーア人やセファルディムによって作られた)はマムルーク朝に対して地中海型のギリシア人の漕ぎ手付きの戦闘用ガレー船と、大半がトルコ系の傭兵とフィリバスターによって構成されるオスマンの義勇軍を与えた[6]』の部分は出典ごと英語版から除かれているようです。

実際問題、フィリバスタがオスマン帝国にいるのは大航海時代オンラインの中だけでしょうし、マムルーク朝の地中海型のガレー船隊の整備はヴェネツィア系ダミーによって行われたとの記載を『海の都の物語』か何かで読んだ記憶があります。英語版のtalkを見ても、オスマンに関する記述は訂正した方がいいように思えます。 --シダー近藤会話2020年7月30日 (木) 12:44 (UTC)[返信]