ノート:コンスタンティノス11世パレオロゴス

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トリビアになりますが、『吾輩は猫である』に出てくる苦沙弥先生の意味不明な罵倒語「オタンチン・パレオロガス」はこの王朝のコンスタンチン・パレオロゴスに引っ掛けた駄洒落ですね。--Charon 2005年6月25日 (土) 10:50 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

パレオロゴス王朝の皇帝の中でコンスタンティノス11世だけ家名が記事名に含まれていないのは何か意味があるのでしょうか。英語版(en:Constantine XI Palaiologos)のようにコンスタンティノス11世パレオロゴスとする選択肢もありますが、ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスのような例もありますのでとりあえず全名への改名を提案することにします。--McYata会話) 2020年6月4日 (木) 15:21 (UTC) 改名が実施される場合、リンク元が百数十件あるのでBot作業依頼を提出しようと思うのですが、その場合「コンスタンティノス11世」というラベルはそのままパイプ付きリンクにするか、リンクの貼られているものはすべて改名後の名称とするか、いずれがよろしいでしょうか。--McYata会話2020年6月4日 (木) 15:26 (UTC)[返信]

リンク変更については、他のパレオロゴス朝の皇帝たちが諸記事の中で少なくとも初出時には家名を加えて書かれていることが多いため、個人的には<nowiki>パイプ付きリンクを使わずまるっきり差し替えてもらいたいと考えています。--McYata会話2020年6月6日 (土) 13:08 (UTC)[返信]
提案から反対なく一週間がたちましたが、「パレオロゴス」を加えることはともかく「ドラガセス」を加えるべきか否か、また加えるとしたらこの「ドラガセス・パレオロゴス」という順でよいか判断しかねるところがあるので(ほとんどの言語版は「コンスタンティノス11世パレオロゴス」あるいは「コンスタンティノス11世」、ごくわずかな例外の一つとしてセルボ・クロアチア語版の「コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス」)、もう少し待とうと思います。Bot依頼の是非と内容についてもご意見をお待ちしております。--McYata会話2020年6月13日 (土) 17:58 (UTC)[返信]
他のパレオロゴス朝の皇帝に合わせる形で「コンスタンティノス11世パレオロゴス」を支持します。「コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス」という記事名なのはオランダ語版とセルビア語版だけのようですし、他言語版は「コンスタンティノス11世パレオロゴス」もしくは「コンスタンティノス11世」となっています。「ドラガセス・パレオロゴス」の順については出典をご提示いただけなければ賛成いたしかねます。
別件ではございますが、マリア・パレオロギナをギリシア語版から翻訳いたしましたので、ご確認いただければ幸いです。--F.M.H会話2020年7月19日 (日) 05:39 (UTC)[返信]
提起して以降、邦語文献をあたろうあたろうと思いながら十分に探せず後回しにしてしまいました。すみません。ドラガセス・パレオロゴスとする記述は今のところ本記事の出典のない記述にしか見られませんでしたので、私の案は取り下げます。そのうえで、やはりF.M.Hさんのおっしゃるように、やはり「コンスタンティノス11世パレオロゴス」が一番妥当で収まりも良さそうです。また今後1週間待って、反対が無ければ改名することにいたします。
マリア・パレオロギナの翻訳ありがとうございました。削除依頼中の案件ですので、参考とするためにもできたらノート:マリア・パレオロギナあたりでご報告いただけたらよかったのですが・・・。ともかく、あちらの削除依頼は版指定削除依頼に切り替えることにいたします。--McYata会話2020年7月19日 (日) 17:01 (UTC)[返信]

報告 改名しました。--McYata会話2020年7月27日 (月) 15:54 (UTC)[返信]

最後の演説について修正提案[編集]

日本語版の当記事の「コンスタンティノープルの陥落」の節において以下の記載がありますが、演説の状況に誤りがあるのではないでしょうか?


神よ、帝国を失う皇帝を許し給うな。都の陥落とともに、われ死なん。逃れんとするものを助け給え。死なんとするものはわれとともに戦い続けよ!」との演説の後、親衛隊とともに市中に渦巻くオスマン軍の中に姿を消して最後の抵抗を試み、消えゆく帝国と運命を共にしたとされている[2]。


この「神よ」から始まる一連の文言は脚注にあるNicolle, Haldon & Turnbull 2007, p. 228から引用されたものと推測されます。原文を以下に引用します。

"God forbid that I should live as an Emperor without an Empire. As my city falls, I will fall with it. Whosoever wishes to escape, let him save himself if he can, and whoever is ready to face death, let him follow me."

しかし、Nicolle, Haldon & Turnbull 2007, p.227- 228によれば、この文言は陥落の日より前、オスマンからの「皇帝はコンスタンティノープルから退去し、都を明け渡すこと」等の要求、ならびに臣下からの「都を脱出し、外部から抵抗を続けてはどうか」という提案に対するコンスタンティノスの返答であるとされています。英語版の記事でも同様に(演説ではなく)返答としてのものとして記載されています。

記事中にある「1453年5月29日未明、ついにオスマン軍が城壁を突破。コンスタンティノスは大剣を抜き払い、皇帝のきらびやかな衣装を脱ぎ捨てると、」という前提で記載されているものではありません。

陥落直前の言葉と言うことであれば、「誰か私の首を斬り落とすキリスト教徒はおらぬか?」(ギボン『ローマ帝国衰亡史』第11巻、中野好夫訳、筑摩書房、1976年、162頁)あるいは前日に聖ソフィア教会で行ったとされる演説が逸話として伝えられているものと思われます。前者は個別記事「コンスタンティノープルの陥落」に記載があります。

また、恐れながら私の調べる範囲ではこの「神よ」からなる訳が記載されている文献を見つけることができませんでした。(言及されているものはありましたがこの訳ではなく、また発せられた状況については上記の通りです)

もし、この訳の文献をご存知の方がいらっしゃいましたらお伺いしたく存じます。また、その文献にこの文言が最後の演説として記載されているのであればその旨も確認できると助かります。

記事の執筆者の方が翻訳されたということであれば、この文言が発せられた状況の精査と合わせて調整を検討するのはいかがでしょうか。--Hacci6743会話2022年8月5日 (金) 13:01 (UTC)[返信]

編集履歴を確認したところ、当該部分は以下の流れで編集されているようです。
文言追加 2010年5月1日 (土) 11:13の版
要出典範囲の設定 2019年5月16日 (木) 14:34の版
参考文献の表記、[要出典]の削除 2020年12月21日 (月) 20:17の版
ただし、この参考文献中の記載内容と現行の記事の内容とにずれがあることは上述の通りです。
引き続き、修正提案へのご意見ならびに参考文献の情報提供がありましたらお願いいたします。--Hacci6743会話2022年8月14日 (日) 01:30 (UTC)[返信]
反対意見や出典の追加などがない状況と見受けられますので、Nicolle, Haldon & Turnbull 2007, p.227- 228及び英語版記事に合わせて当該部分を修正しようと思います。
当該文言については、現時点では錯誤と思われること、かつ日本語訳の出典元が不明、かつ直前の段落で当時の状況の記述は十分できているものと個人的には感じていることから、無理に個人で訳したものを載せる必要はないと考えています。
しかしながら、記事の方でも修正の経緯を見て取れるようにするため、状況に合わせて修正した日本語訳を一旦記載しておきます。記事のバランスが悪いようでしたら適宜修正・削除していただければと存じます。
ただし、今更のことではありますが、追記や変更等される場合には出典元の確認・記載を是非ともお願いいたします。--Hacci6743会話2022年8月18日 (木) 14:57 (UTC)[返信]