ノート:クンダリニー

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方針文書熟読のお願い[編集]

IP:121.83.68.139会話 / 投稿記録氏へ。ウィキペディアにはWikipedia:検証可能性というルールがあります。出典なしとして除去されているにもかかわらず、出典を示さずに、執筆を強行するのは慎んでください。確かにクンダリニーに関し語られていてそれを批判している情報源があれば、それに基づいて加筆することは歓迎されますが、そうでないにもかかわらず、オカルトやスピリチュアリティ一般に対して言われているような批判を、出典も付けずに、あたかもクンダリニーに対する批判であるかのように流用するというのは、Wikipedia:独自研究は載せないに抵触すると思います。同方針では、「独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。」と記されています。ここでいう資料とは、当記事の参考文献節に挙げられているような文献が例として挙げられます。仮に121.83.68.139氏の投稿を裏付ける出典が存在するとして、その出典は同方針のいう資料を指しているのでしょうか。答えは否でしょう。従って、同氏による一連の記述の出典の明示なき掲載は不適合であるといえます不適当でしょう。 --Mait会話) 2013年1月19日 (土) 14:36 (UTC), --Mait会話2013年1月30日 (水) 00:49 (UTC)[返信]

上記IPユーザーは、3日間の投稿ブロックとなりました。同氏はなんらコメントをされていないので、上記説明に異議はないものと解します。にもかかわらず、同様の編集を行うというのは、「ウィキペディアのルールよりも、自身の正義感に基づく主張・注意・助言を広めることを優先します」と無言のうちに宣言されているに等しいでしょう。ウィキペディアでは方針の遵守と、編集が対立した際には他の利用者との合意形成が求められます。各種方針を一通りお読みになり同意できる内容であれば編集に参加し、同意できなければ参加は控えて下さい。前者を選ぶのなら、対話を求められればそれに応じるというコミュニティに参加する者として当然の協調を図って頂きたいと存じます。--Mait会話2013年1月21日 (月) 12:38 (UTC)[返信]


121.83.68.139より Mait氏(?)へ。批判された私の加筆を裏付ける資料を探すために時間を割いておりますが残念ながらいまだ発見できていません。資料が見つかり次第、オカルトを推奨してイカサマ商法に助力する当記事のようなwikiのページには積極的に、それらの存在を否定する意見を加筆していくつもりです。 この「ノート」というものでのやり取りを私は一方的な警告と受け取り、対話ということで捉えていなかったのですが、幾つか教えていただきたいことがあります。

一つ目の質問は、上記にて「121.83.68.139氏の投稿を裏付ける出典が存在するとして、その出典は同方針のいう資料を指しているのでしょうか。答えは否でしょう。」と否定的意見を述べておられますが、これは個人的な推測・推量の範囲を超えて何らかの裏付け・根拠があることなのでしょうか?答えは否ではないですか?

二つ目の質問は、例えば「フレスコ」のページにあるように「この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。」と明示したうえで、オカルトを否定する立場からの加筆も認めることのほうが、広く公共の利益の観点からもバランスが取れた対応ではないかと私は考えますが、なぜ当記事に関してはそのような対応が取られなかったのでしょうか?

1つ目の質問に関してですが、「否でしょう。」と推量の表現を用いている通り、私がある程度資料を参照した上での推測・推量の範囲を超えていません。ただ、推量に過ぎないからという理由で、記述の除去は問題だと仰るのでしたらそれは違います。Wikipedia:検証可能性から抜粋しますと、「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)」。
2つ目の質問に関して。独自研究の記述が含まれる記事を発見したときには、「独自研究」のテンプレートを掲示し、ある程度の期間待ったにもかかわらず改善されない場合は除去という方法をとるか、こういった段階を経ずに即除去という方法をとることになるわけですが、どちらを選択するかは、問題を認識した利用者の判断に委ねられるかと思います。私がなぜ後者を選択したのかというと、独自研究が強く疑われ、一定期間の猶予を設ける必要性がないと思われたからです。
また、「オカルトを否定する立場からの加筆が認められない」わけではないんです。しかし、当記事においてオカルト一般に対する注意書きを認めるべきという主張でしたら、それは、書く場所が違うのではないかと思います。121.83.68.139さんの執筆された内容の中には、オカルト的思想の流布やオカルトの実在を認めることに対する注意に関する記述がありますが、特にこういった記述はたとえ出典が示されたとしても、「クンダリニー」という概念への理解を深める助けにはならず、当記事への掲載は不適当だと思います。--Mait会話2013年1月30日 (水) 00:49 (UTC)[返信]


121.83.68.139より 仰ることは理解できます。この場で活動したいのであればルールを守ることが前提ですので、出展となるふさわしい書物を探すことに注力したいと思います。しかし、すでにwikiは社会的に大きな存在感と働きを獲得しています。その掲載記事に、賛否両論ある物事に対して、出典がないから(つまり科学界からは歯牙にもかけられないようなオカルト存在だから)という理由で、存在を否定する意見が記されないというのでは、バランスが取れないどころか、悪影響のほうが多大であると懸念するところです。せめて「疑似科学」のページへのリンクを用意しておくことが、望んで社会的装置となったwikiに求められる良心だと思われますがいかがでしょうか。

また、冒頭に主語のない形で「クンダリニーは・・・原料であるとさえいわれる」と結論付けられる現在の記述では、正確には巻口氏一人の意見(あるいは巻口氏と成瀬氏だけの意見)であるにもかかわらず、主語が明記されないことによって、あたかも広く一般的に通念として認められた事柄であるかのような誤解を招く危険な表現であると思います。「巻口によれば、・・・」等の主語明記が怠られているのはいささか意図的で、問題があると感じますがいかがでしょうか。

さらに、「オカルト的思想の流布やオカルトの実在を認めることに対する注意」を記述するには不適当な場所であるとおっしゃいますが、他に適当な場所があればご提示ください。むしろ私は、利用者は検索エンジンを利用して直接当該記事にアクセスするという利用状況を前提とすれば、たとえwikiのトップページに「wikiには、それを否定する文献が出典として引用されない限り、社会通念上非常識で荒唐無稽な事柄であっても事実として掲載されていることがあるので、それをすべて現実であると勘違いしないように注意してください」と仮に注意喚起の文言掲載をしたとしても、それはwikiの卑怯な責任逃れの言い訳として利用される以上には、些かの効果も及ぼさないと思います。その記事を信じることによって不利益をこうむる恐れがある、と常識的に基づいて判断される記事については、肯定・否定の双方の意見が掲載されるべきではないでしょうか。先に申したとおり、少なくとも「疑似科学」であると銘記する必要があると断言します。

もし、医療処置が必要な患者がこの記事の記載を信じたために病院を退院し、ヨガやクンダリニー覚醒の修行だといって時間と費用を浪費し、病が進行して命を落とすといった事態が起こったとき、どのように責任が取れるとお考えですか?あくまでも「記事の記載は参加者の自主的な判断に基づくものであり、wikiとしては記事の内容の真贋には一切責任がもてない」と主張を通すのでしょうか? 2013年1月30日

121.83.68.139より http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E2%80%90%E4%BC%9A%E8%A9%B1:Mait#.E2.96.A0.E3.81.8A.E7.A4.BC での「クリシュナ・宇宙学校」氏とのやり取りを拝見いたしました。当該記事に関して、Mait氏がはたして中立的な立場を守られているのか、オカルト肯定派として否定意見を(無意識的にしろ)封殺しているのか、はなはだ疑問に思う次第です。2013年1月31日

ご意見ありがとうございました。以下、端的に述べさせて頂きます。
まず、「クンダリニーは・・・原料であるとさえいわれる」という記述に関しては、貴方の仰るとおりだと思いますので、訂正させて頂きました。
「少なくとも「疑似科学」であると銘記する必要があると断言します。」に関しても、そのように対処させて頂きました。
次に、ウィキペディアの定める免責事項に関して。全ての記事の最下部にWikipedia:免責事項へのリンクがあることを一応指摘しておきます(個人的には、これが記事の最上部にあれば良いのにと思うことはありますね)。なお、ウィキペディアのノートでの議論はルールを踏まえた上でというのが前提ですが、そのルールにはWikipedia:免責事項も含まれるので、責任云々に関してここでの議論は差し控えたいと思います。
最後に、「オカルト的思想の流布やオカルトの実在を認めることに対する注意」等を記述するに適当な記事について、個人的な考えに過ぎませんが述べさせて頂きます。
「霊的な存在(・・・)と思い込んでしまっているだけであるという意見もある。」
上記の記述は、「スピリチュアリティ」に掲載するのが相応しいと考えます。
「いたずらに(・・・)慎む必要があるという意見もある。
放送機関(・・・)理性を身につける必要があるという意見もある。」
上記の記述は、どうしても掲載したいということであれば「オカルト」か「スピリチュアリティ」が相応しいでしょうか。ただ、注意喚起の類ですので、他の利用者から不要であるという理由で除去される可能性も否定できませんが、そのときは相手方と合意を形成して下さい。出典を明示した上での記載が望ましいでしょう。
これらの記事に掲載する場合は、文脈上おかしくならないよう、書き方や掲載位置等注意して掲載して頂くようお願いします。--Mait会話2013年1月31日 (木) 05:28 (UTC)[返信]


121.83.68.139より Mait氏に対して感情的に過ぎる態度で難癖をつけてしまいましたが、当方の懸念を払拭する対応を取っていただけたことに(感謝と謝罪の両面をこめて)謝意を表します。提示頂いた、私が注意喚起を記述したいのであれば「よりしかるべき」とおもわれる場所については、慎重に熟読と検討を重ねたうえで、必要と信じるならば該当記事のノートで意見を表明したいと思います。長らく手数をおかけいたしました。

コンテキストの明確化[編集]

この記事の記述を修正すべきと考えています。 特定の考え方に基づいた知識として、記事はおもしろいと思いますが、その前提がなく、いきなり「人体内に存在する根源的生命エネルギー」というのは、さすがにおかしいでしょう。少なくとも社会一般の科学的常識とは相容れません。引用文献を見れば、どういう類の知識なのかわかると思いますが、例えば「○○○において、人体内に存在する根源的生命エネルギーとされるものである」と書くのが、百科事典として相応しいかと思われます。 「ヨーガにおいて」で問題ないでしょうか。ヨーガ一般ではなく、もっと特定すべきなのでしょうか。 私は、この考えを社会に害悪がある疑似科学であるからと封殺する意図もありませんし、逆に社会一般に広く認められた科学的知識であると主張するつもりもありません。 中立的立場として「○○○において」はどのような記述が相応しいかご意見いただけると幸いです。


追記:軍荼利明王の中の記述の方がずっとすっきりしていて記事としてまとまってますね。

--4thmoon会話2016年3月23日 (水) 02:10 (UTC)[返信]