ノート:キリスト教の歴史

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2004年の投稿[編集]

どうもキリスト教側に偏った歴史観に見えます。 魔女狩りのことにまったく触れていないのもさることながら、十字軍に関してもイスラム世界が受けた侵略被害という重要な点を避けています。 世界史に詳しい方の補足が待たれます。Sampo 14:07 2004年2月19日 (UTC)

しすまなのです。みなさまフォローよろしくです。Aphaea

中世の部分の構成[編集]

キリスト教の歴史#イスラムの圧迫と教会の東西分裂のくだりは少し事態を単純化しすぎているように思います。西方教会史だけならこれでいいのかもしれませんが、

  • アレクサンドリア、アンティオキア(アンティオキアはもうすこし後のはずですが)がイスラム圏に入った。
  • イスラム教の形像拒否に刺激され、聖像破壊運動が起こった。
  • 西方が自立する傾向をみせており、聖像破壊運動におけるローマ教皇と東ローマ皇帝の対立により東西の溝が深まった。
  • 東ローマ帝国でエイレーネー皇后による帝位の簒奪が起こった、それを機に西方が独自に皇帝を戴冠して完全な政治的自立を果たした。
  • スラブ宣教(周辺領域での東西教会の衝突)

……という流れだと思うのですが、どうしたものでしょう。

イスラムの成立から一直線にカール1世戴冠までを語ると、「一方東ローマ帝国では」の後に聖像破壊論争がきて、時期的に話が前後するのが少しきになっています。あるいはこれを東西すでに独自の展開をみせているとして、

  • イスラム帝国の出現と単性論地域のイスラム圏化(7世紀から8世紀)
  • 西方の自立 (9世紀)
  • 東における帝権強化、聖像破壊運動、スラブ宣教(8世紀から10世紀)

とするのがよいのでしょうか。

まだ書かないといけないことはいろいろありますが、いじってみました。

中世で欠落していること[編集]

いろいろと抜けているのが気になったので。。

西方
  • 托鉢修道会
  • 大学、とくにスコラ学への言及
  • 神学的発達(アリストテレス主義の紆余曲折とトマス、ドイツ神秘主義などへの言及)
東方
  • 静寂主義(グレゴリオス・パラマス)
  • 修道士と教会の関係
  • スラブへの宣教の状況

このあたりをもっと埋めていくといいのかな(少なくとも最低限言及して、各個別項目へつなぐ) 全体にいまのところ、古代に比べると中世の部分は教会史に傾きすぎているのかなという印象をもっています。--Aphaia 2005年8月12日 (金) 05:08 (UTC)[返信]

系統図[編集]

英語版みたら色つきになってました。色つきのほうがみやすいなと思いました(教派別のほうがわかりやすい)かえたほうがいいでしょうか。

それともどなたかこの機会に日本語化なさいますか。--Aphaia 2005年8月9日 (火) 21:03 (UTC)[返信]

「忘れてはならない」[編集]

ウィキペディアは論評する場ではないため、「忘れてはならない」という記述はできません。--121.87.114.152 2009年12月10日 (木) 07:21 (UTC)[返信]

質問[編集]

*イエスの誕生と歴史について教えてください。by A.S

タグ[編集]

特に初代教会あるいは原始キリスト教の所を見て唖然としましたが、リベラルよりの見解しか書かれていません。しかも、出典がありません。独自研究の疑いもあります。キリスト教の歴史というからには、キリスト教の教会、教派で共有される歴史と、教父文書、確定した教理、神学、事実をたんたんと記述していくべきでしょう。そうしないと、2000年にわたるキリスト教の歴史を記述するに、収拾がつかなくなります。2000年分のあらゆる説を両論併記にしていくことなど不可能です。--イザヤ 2011年1月13日 (木) 13:00 (UTC)[返信]

コメント イザヤさんの御懸念「リベラル偏向」について賛成、独自研究の疑念についてもやや賛成します(通俗的なリベラルの理解を書き連ねただけのようにも見えますが)。ただ結論の「不可能」についてですが、意外と可能なのではないでしょうか。少なくとも現時点、福音派、ローマカトリック、正教会の編集者がアクティブになっている訳で、皆で手分けしながらお互いをチェックし合い続ければ、確かに1、2ヶ月などでは無理な相談ですが、1年位地道に続ければ何とかなりそうな気もします。特にこの問題、東西教会については東西の交流があった期間が極めて短い上に、第四回十字軍についてもローマカトリックが正当性を主張することも今日ではありませんので、東西教会は別々に記述すれば事足りるため、両論併記を混在させながら進めなければならないキリストの生涯・神学系の記事よりは、必要なリソースは(東西教会の局面に限って言えば)少ないと思います(たぶん見解の対立が出るとすれば東方典礼カトリック教会について位でしょう)。--Kinno Angel 2011年1月13日 (木) 13:06 (UTC)[返信]

タグ復帰[編集]

タグを復帰しておきました。ノートで指摘されている内容は何一つ改善されていません。--Kinno Angel会話2015年2月16日 (月) 04:09 (UTC)[返信]

編集提案[編集]

古代初代教会あるいは原始キリスト教の間に下記のような文を追加したいと思います。

古代の歴史


紀元前6年ないし紀元前4年ごろナザレのイエスはベツレヘムに生まれる。

26年ごろナザレのイエスはガリラヤで宣教を開始する。山上の垂訓の中核に位置するものとして、主の祈りがある。(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P91) ナザレのイエス参照。

紀元後30年ごろ(注Jesus | Britannica.com)刑死によってナザレのイエスは他界する。

イエスの復活信仰の確立

50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、生ける真の神によって、死者たちの中からナザレのイエスが復活したことを表明した。(注、テサロニケ人への第一の手紙1-9)テサロニケの信者はイエスは死んでから蘇ったという復活信仰を始めた。

54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、神によって、死者たちの中から三日目にナザレのイエスが復活したことを表明した。(注、コリント人への第一の手紙15-4)コリントの信者はイエスは死んでから蘇ったという復活信仰を始めた。

70年ころ無名の著者はマルコによる福音書を記し、(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P9915 )イエスの死後女性信者たちに何らかの事象が起きたことを表明する。(注、マルコによる福音書16-5、南シリアの信者はこれより、イエスの生涯を福音的視座をもって眺めることとなる。)

80年代無名の著者はマタイ福音書を記し(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P916 )、死人の中からナザレのイエスが起こされたことを表明した。(マタイ福音書28-9) 西シリアの信者は 死人の中からナザレのイエスが起こされたという信仰を始めた。

80年代無名の著者はルカ福音書を記す。(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P916 )(注、イエスの復活信仰が確立した。)

イエスの死を通しての贖罪信仰の確立

50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、来たらんとしている神の怒りからイエスが救い出してくれることを表明した。(注、テサロニケ人への第一の手紙1-10)テサロニケの信者は神の怒りからイエスが救い出してくれるという信仰を始めた。

54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、イエスは神の御子であり、イエスは私たちの罪のために死んだということを表明した。(注、コリント人への第一の手紙15-3)コリントの信者はイエスは神の御子であり、イエスは私たちの罪のために死んだという贖罪信仰を始めた。 また、パウロはコリント人への第一の手紙を記し、アダムにおいてすべての者が死ぬように、そのようにキリストにおいてもまた、すべての者が生きるようにさせられるということを表明した。コリントの信者はイエスによってアダムの罪による自分たちの死が神の御子により蘇りに転換したという信仰を始めた。(注、コリント人への第一の手紙15-20)

80年代無名の著者はマタイ福音書を記し(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P916 )、イエスはヨセフの子ではなく、聖霊によって身ごもった神の御子であることを表明した。(マタイ福音書1-18)そしてかれの民をもろもろの罪から救うことを表明した。(マタイ福音書1-21) 西シリアの信者は イエスはヨセフの子ではなく、聖霊によって身ごもった神の御子であるという信仰を始めた。そしてかれの民をもろもろの罪から救うという信仰を始めた。

また、山上の垂訓の中に主の祈りを記した。(注、これにより西シリアの信者は 信仰の行としての毎日の祈りの中で怒りの神とは異なる父なる神の信仰を始めることとなる。信者は個人として主なるイエス・キリストとの関係を深めることとなり、イエスの死を通しての贖罪信仰を深めることとなる。)


80年代無名の著者はルカ福音書を記す。(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P916 )(注、イエスの死を通しての贖罪信仰が確立した。)

主イエス・キリスト信仰の確立

・50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、イエスは主としてすぐに来臨してくることを表明した。(注、テサロニケ人への第一の手紙3-13)テサロニケの信者はナザレのイエスは主イエス・キリストであるという信仰を始めた。

54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、イエスは私たちの主なるキリストであるということを表明した。(注、コリント人への第一の手紙15-27)コリントの信者はイエスは私たちの主なるイエス・キリストであるというキリスト信仰を始めた。

  ・80年代無名の著者はマタイ福音書を記し(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P916 )、イエスの父ヨセフは、アブラハム、ダビデの子孫であり、ヨセフの子であるイエスは予言されていたキリストであることを表明した(マタイ福音書1-1)。西シリアの信者は、イエスはヨセフの子であり、予言されていたキリストであるという信仰を始めた。

80年代無名の著者はルカ福音書を記す。(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P916 )

90年代無名の著者は使徒行伝を記す。(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P916 ) ステファノが死の直前に聖霊に満たされてイエスが神の右に立っているのを見たことを表明する。(使徒行伝7-54)信者は神の右にイエスが立っているという信仰を始めた。(注、ユダヤ教に伝承されてきたキリストが主イエスであるという信仰が確立した。)

終末信仰の確立

50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、自らの終末観を表明した。(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P920 )(注、この終末観は初期キリスト教の預言者の言葉である可能性大であるとされている。出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P495)テサロニケの信者は下記の予測についての終末信仰を始めた。

・パウロが生きているうちに主の来臨がおきる。

・パウロが生きているうちに合図の声とともに主が天から下ってくる 。

・パウロが生きているうちにキリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえる。

・パウロが生きているうちによみがえった死人や眠っていた人たちが天に上げられる。

・パウロは生きたままで空中で主に会うことになり、そののちはいつも主と共にいることになる。 (注 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。テサロニケ人への第一の手紙第4章 15 )

54年ころパウロはコリント人への第一の手紙を記し、自らの終末観を表明した。((出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P921)コリントの信者は再臨の時までパウロが生き残ることと、不死なる体に変化する世の終わりが近づいてきているという終末信仰を始めた。(注、 コリント人への第一の手紙第15章 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。)

95年から96年ごろ著者は不明であるが、ヨハネの黙示録が著され、天にてキリストの支配がはじまったという終末観が表明される。((出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P939) (注パウロの他界した年は65年ころとされるので、それから30年くらい経過した時点での新たな予測の表明が為された。)小アジアの信者は天にてキリストの支配がはじまったという終末信仰を始めた。(ヨハネ黙示録12-10今やわれらの神の救いと力と王たる支配と、彼のキリストの権威による統治が始まった。)(注、キリスト教的な終末信仰が確立した。)

自立

60年代ヤコブ、ペトロ、パウロが刑死によって他界する。

66年から70年第一次ユダヤ戦争の結果としてエルサレム神殿が崩壊したころ、ユダヤ教からキリスト教が自立した。

--Tokinokawa会話) 2020年4月16日 (木) 11:38 (UTC)--Tokinokawa会話2020年4月16日 (木) 11:54 (UTC)[返信]