ノート:ブリアン=ベキル・サーミ協定

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問題点[編集]

League of Nations Photo Archive[編集]

唯一のソースとして提示されているLeague of Nations Photo Archiveのページですが、ちらっと見ただけですけど、説明文が途中でぶった切れていたり、EskishehirがEskishebrに、DuisburgがDuisbergになっていたりして、心配です。果たして信頼できるなのでしょうか?私は、違うと思います。

トルコ語版での削除依頼と統合[編集]

トルコ語版ウィキペディアは削除依頼が出されて統合されていますが、これは特筆性が無いというよりもむしろ、Kilikya Barış Antlaşmasıという名称が信頼できる情報源に見当たらなかったのが主因のようです。実際に単独立項は可能ですが、トルコ語版の利用者たちの「インチキ記事名」に対する拒否感が大きかった感じをうけました。私が調べた限りでも、日本語名も英語名も仏語名も「信頼に値しない情報源」以外には、この名称は見当たりませんでした。そもそも、この協定は、キリキアだけを対象にしているのではなく、トルコとシリアの国境全体が対象になっています。

調印日は3月11日では?[編集]

『解放戦争日誌 (解説付き年表)』第三巻 Zeki Sarıhan, Kurtuluş Savaşı Günlüğü (Açıklamalı Klonoloji) III. Cilt TBMM’den Sakarya Savaşı'na (23 Nisan 1920 – 22 Ağustos 1921), Öğretmen Yayınları, Yenişehir Ankara, Ocak 1986, s. 430.の1921 Mart 11 Cuma (1921年3月11日金曜日)のところに「ベキル・サーミ・ベイブリアンとの間で土仏協定が調印された」とあります。この時期のトルコとフランスの関係の専門家ビゲ・ヤウズの著作を見てみると、Bige Yavuz, 1921 Tarihli Türk-Fransız Anlaşması’nın Hazırlık Aşamaları, Atatürk Dönemi Türk Dış Politikası, Atatürk Araştırma Merkezi, 2000. でも、Bige Yavuz, "Bekir Sami Bey’in Haziran 1921 Avrupa Seyahatine İlişkin Fransız ve İngiliz Belgeleri", XII. Türk Tarih Kongresi, 12-16 Eylül 1994, Ankara (IV. Cilt), Türk Tarih Kurumu Basımevı, 1999, ISBN 9751611733, s. 1324.でも、1921年3月11日になっています。

フランス語のものもあたってみましたが、Accord franco-turc politique, militaire économique, sur les frontières entre la Turquie et la Syrie, signé à Londres le 11 Mars 1921Imprimerie nationaleから1921年に出版されているようでうす。ずばり、1921年3月11日ですよね。

また、アルメニア系フランス人のジョルジュ・ケヴォルキアンさんの著作 Georges Kévorkian, La France chassée de l'Empire ottoman - Une guerre oubliée 1918-1923, Editions L'Harmattan, 2014, ISBN: 978-2-343-01785-3, p. 149. にも

L'accord Briand/Békir Sami (11 mars 1921) /ブリアン/ベキル・サーミ協定 (1921年3月11日)

とあります。

一方、Accord en vue de rétablir les relations amicales entre la France et la Turquie. (Londres, 9 mars 1921)というサイトでは、1921年3月9日になっています。もしかしたら、ゴットハルト・イェシケの解放戦争クロノロジーに3月9日と書かれてあるのが原因かもしれません。イェシケはその項目の出典としてNutuk第二巻111頁を挙げているので、それを確認してみましたが、Nutuk では3月11日となっていました。サイトにあるこの「文書」は、日付が違うだけでなくて、条文の内容も『フランス外交文書集』のものと微妙に違います。たとえば、協定のL条に Puis la frontière rejoindra le coude de l'Euphrate au nord d'Azekh et suivra l'Euphrate jusqu'à Djeziret-ibn-Omar. とありますが、アゼフ (イディル)ジェズィレト・イブン・オマル (ジズレ)チグリス川沿いにあるにもかかわらず、ユーフラテス川と記されています。『フランス外交文書集』のほうでは、チグリス川になっています。3月9日時点での草案に誤記があったのかもしれませんし、単にサイト作成者が書き間違えたのかもしれません。

フランス外務省の公刊したフランス外交文書集 Ministère des affaires étrangères, Documents diplomatiques français: 1921. (16 janvier - 30 juin), France. Commission de publication des documents diplomatiques français, Peter Lang, 2004 ISSN 1377-8773, p. 301. には、

Accord Franco-Turc politique, militaire, économique, sur les frontières entre la Turquie et la Syrie,

10 mars 1921

Entre les Hautes Parties Contractantes soussignées : Son Excellence M. Briand, Président du Conseil, Ministre des Affaires étrangères, agissant au nom du Gouvernement français d'une part, et Son Excellence Bekir Samy Bey, Délégué de la Grande Assemblée Nationale d'Angora, agissant au nom du Gouvernement national turc, et muni à cet effet de pleins pouvoirs, qui ont été trouvés en règle.

以下に条文が箇条書きされています

とあり、日付は1921年3月10日になっていますが、この文書には日付の最後に脚注があります。そこには、

Fait à Londres, en double original, signé Briand. Annotation manuscrite : « dernière forme ». Nombreuses corrections de la main de Berthelot.

ロンドンで作成、原本の複製品で、ブリアンの署名、手書きの注釈で「最終稿」。 ベルテロの手による数々の修正。つまり、この「最終稿」にはブリアンの署名はあるけど、ベキル・サーミ・ベイの署名が無いようなのです。また、最終稿であるのにもかかわらず、メイダン・エクベスが「ネイダン・エクベス」になっています。

条文の最後にも脚注があり、

Le 11 mars (T. nos 211-215, extrême urgence, non retenu) Berthelot annonça la signature le jour-même de l'accord avec Angora et donna l’instruction de télégraphier à Beyrouth et à Constantinople, extrême urgence, très confidentiel, le télégramme qui en donnait les grandes lignes, ajoutant, pour Beyrouth, qu'il fallait d'urgence en mettre à exécution les clauses militaires et, pour Constantinople, qu'il fallait « faciliter la réalisation de l'accord en ce qui concerne les prisonniers ». Document non retenu.

つまり、3月11日にベルテロがアンカラとの協定の同日に調印を発表したということのようです。

誤訳?[編集]

「キリキア講和条約」というタイトルだけでも独自研究になっていますが、「条約の目的は果たされず、アンカラ条約(英語版)で無効になった。」というのは英語版にすら書かれていません。この文が単なる誤訳なのか独自研究なのかは判断しかねますが、他国語版の記事を翻訳して立項するときは、記事をよく吟味してお選びになったほうがいいと思います。この記事の英語版はぶっちゃけ「やばいやつ」です。

ネタばれをしておきますと、セーヴル条約の見直しのためロンドン会議で話し合っていたところ、ベキル・サーミが自身のイニシアティヴで本国の訓令に反する条件で協定に調印しちゃったので、帰国したとたん「独立裁判所で吊し上げにしろ」という意見も出てるわ、協定は大国民議会により拒否されるわ、本人は外相を辞任するはめになるわ、というお話です。Takabeg会話2018年5月27日 (日) 14:25 (UTC)[返信]

  • コメント 記事名の「キリキア講和条約」というのは、Cilicia Peace Treatyの直訳で、英語版にあった出典に基づくものです。それが信頼できる/できないにかかわらず、ほかの文献で全く見られないのであれば、記事名としては適当ではないことになります。Takabegさんが挙げて下さったL'accord Briand/Békir Samiから「ブリアン=ベキル・サーミ協定」、または『解放戦争日誌 (解説付き年表)』での記述から「仏土協定 (1921年3月)」「土仏協定 (1921年3月)」とする(10月のアンカラ条約があるので、「3月」は必要です)のが妥当ではないかと思います。問題なのは、明らかに優勢な表記がないところですが、個人的には「仏土協定 (1921年3月)」を推したいと思います。(トルコ語版でなされた「解放戦争のトルコ戦線」への統合も可能ですが、それを日本語版で行うにはまず仏土戦争英語版という統合先を作成する必要があるのがネックです。)Takabegさんはどうお考えでしょうか。
  • 「フランスとトルコ国民運動との間の仏土戦争を終結させるための条約」がほかの文献でも確認できる以上、League of Nations Photo Archiveの信頼性については(そもそも使う必要がないので)特に論じなくてもよいでしょう。またCilicia Peace Treatyの表記がほかで見られない以上、別表記として本文に書く必要もないでしょう。
  • 日付については、文献の間でこれだけバラつきがあると、正直難しいではないでしょうか。Takabegさんの検証をそのまま使用するより、各文献で日付のバラつきがあることを記述したほうがよいかもしれません。応急処置として『解放戦争日誌 (解説付き年表)』を出典に3月11日としましたが、各文献におけるバラつきの記述はTakabegさんの意見を待ってから行います。
  • 「条約の目的は果たされず、アンカラ条約で無効になった。」については、おそらく「無効」が問題になったと思われますので、その部分は消して、アンカラ条約の締結時期を追記することにしました。--ネイ会話2018年5月27日 (日) 15:59 (UTC)[返信]
お疲れ様です。調印日は9日としているものと11日としているものがあります。概説書などでは、9日としているものもあるようです。たとえば、Andrew MangoAtatürk: The Biography of the Founder of Modern Turkey では9日で、Stanford ShawHistory of the Ottoman Empire and Modern Turkey では協定にも言及されておらず、Erik-Jan ZürcherTurkey: a Modern History では11日です。スペスィフィックな研究で新しいものはほとんど11日になってます。そういうのもあると掲載しておいたほうがいいかもしれません。名称については、「キリキア」と「講和」と「条約」を外せばオーケーです。日本語の信頼できる情報源で見つけられない以上、ネイさんが挙げてくださった候補のどれでも大丈夫だと思います。ただ、「仏土協定 (1921年3月)」なのか「土仏協定 (1921年3月)」なのかを考えると、つまり仏が先なのか土が先なのかなのかという疑問、「ブリアン=ベキル・サーミ協定」か「ベキル・サーミ=ブリアン協定」かということでも同じ疑問が浮かびます。フランスですとブリアンが先でトルコですとベキル・サーミが先になっているようです。日本語文献における慣例はどうなのでしょう? 五十音順なのかアルファベット順なのか? もし、順序のルールや慣例があればそれに従い、ルールや慣例が存在しないのであれば、どれにするのかは、ネイさんのセンスにおまかせします。Takabeg会話2018年6月2日 (土) 12:25 (UTC)[返信]
承知いたしました。もう少し考えなおしましたが、(1921年3月)という曖昧さ回避の括弧は避けたいところ(煩雑すぎる)ですので、下記のように改名提案を提出いたします。--ネイ会話2018年6月9日 (土) 10:16 (UTC)[返信]

改名提案[編集]

提案 これ以上のコメントもないようですので、ブリアン=ベキル・サーミ協定への改名を提案いたします。上記で記事名の代案が数件出ていますが、明らかに優勢な表記がないので、「曖昧さ回避の括弧が必要ない」という理由で「ブリアン=ベキル・サーミ協定」を推します。(「仏土協定 (1921年3月)」「土仏協定 (1921年3月)」「ベキル・サーミ=ブリアン協定」のどれでも反対しません。また、どれを採用しても残りをリダイレクトとすべきと考えます。)--ネイ会話2018年6月9日 (土) 10:16 (UTC)[返信]

賛成 「ブリアン=ベキル・サーミ協定」でいいと思います。Takabeg会話2018年6月9日 (土) 14:33 (UTC)[返信]

報告 改名しました。また上記の3選択肢でリダイレクトを作成しました。--ネイ会話2018年6月16日 (土) 14:50 (UTC)[返信]