ノート:アンゴルモア

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修正点についてのコメント

  • 「当時の言い回し等を考慮した意訳」について

16世紀仏文学専攻の高田勇・伊藤進両氏の訳ではそうなっていませんし、他に訳しようがないかのごとくに書くのはミスリーディングに思えたので(というか、何の断り書きもせずにdeffraieurにすりかえて訳していること自体、かなり問題だろうと思いますが)、その点直させて頂きました 。それと直訳の方についても、「7の月」は五島勉の訳によって広まりましたが「直訳」とはいえないだろうということで、文字通りの直訳に直しました。

そもそも個人的には、記事本文に訳詩が掲載されていることの当否自体が、別途議論を要する事項であるようにも思えますが。

  • ワールシュタットの戦い

既にその記事が存在している為、戦い自体の記述は簡略化しました。

  • 結語のコメントアウト

現代人にとってはあるいは自然かもしれませんが、ノストラダムス自身の年代観が西暦に沿っていたとは立証されていません。ブランダムールらの研究により、むしろ全く別の周期・年代観を重視していた可能性すら指摘されている現状では、この記述は不適切であると考えましたので、コメントアウトしました(まあ、そもそもこの詩が偽作なら、彼の年代観を云々しても無意味ではありますが)。Sumaru 2005年12月10日 (土) 19:49 (UTC)[返信]

  • 第4節に『神聖モテモテ王国』を追加して下さい。アンゴルモア大王を名乗る人物が登場しています。

モンゴル説について[編集]

この部分を書いたときに「"Mongolians"などの」としたのは、日本で通俗的に知れているものを選んだためであって、アナグラムはこれに限られるわけではありません。パリの出版社からフランス語の著書を発表していたアメリカに亡命したルーマニア人解釈者(ややこしい)のイオネスクなどは、Mongolaisのアナグラム(これも現代フランス語にはありませんが、-ais は造語としてありうる接尾辞です)としていましたし、(日米で広まっていたというのは「まあ、そうだなあ」とは思いますが)「フランスにおいてはこの説を採る研究者は多くなく」という部分は事実だろうかと引っかかります。要出典を貼ったのはそのためです。

個人サイトの更新に絡んで改めてこの記事を読んでみたら自分の過去の加筆もかなり雑だなあと思いましたので、1週間程度をめどに大幅な改稿をしたいと思うのですが、それまでに出典を示していただければと思います。--Sumaru 2007年12月16日 (日) 07:07 (UTC)[返信]

該当箇所が消されたということは確たる出典に基づいていたというわけではなかったのだろうと思いますし、そこに追い討ちをかける様にぐちゃぐちゃ言うのもどうかと思うのですが、

>"Mongolian"は英語のスペルであり、フランス語では"Mongolique"となるため、

が残っていますが、英語圏でモンゴル説を(多分最初に)述べたレオニは、Mongolois のアナグラムとしていました。かつてのラメジャラーもそうです。ただ、コリン・ウィルソン『オカルト』ではMongolians となっていて、これを五島勉氏が紹介したので(ただし五島氏はMongolia)、日本ではそれがよく知られただけです。つまり英仏の綴りの違いはモンゴル説がどの程度伝播したかはと直接的に結びついていたようには思えないのですが、いかがでしょうか。--Sumaru 2007年12月17日 (月) 14:43 (UTC)[返信]

該当箇所の件については了承いたしいました。一応、指摘に伴い消去させていただきます。--202.214.46.2 2007年12月20日 (木) 05:37 (UTC)[返信]
どこかの伝聞で知りえたことを検証せず記したため、確かに信憑性その他で疑問の残る情報だったと思います。ご指摘有難うございました。--Shinkansen 2007年12月20日 (木) 14:07 (UTC)[返信]

全体的な加筆[編集]

予告どおり、時系列的に整理しました。その際、他の方が加筆した分についてはできる限りもとの記事の情報を保持しようと努めましたが、「特に日本では滅亡と結び付けられた」という話は、滅亡説がフランスでは1870年代に登場しており、1930年代に再燃していることから、日本に限定するのは不適切と判断しましたため、すみませんが削りました。--Sumaru 2007年12月24日 (月) 08:12 (UTC)[返信]

上の書き方は舌っ足らずだったかも知れませんが、「1870年代に登場」というのは「私の知る限りでは少なくとも」という限定がつきます。誤解を招いたのであれば謝罪いたします。

滅亡説は1715年のD.D.(本名不明)の本などに出ていた可能性は否定し切れません。ですので、19世紀からというのは、加筆者が私の発言とは別の出典に基づいているのでない限り「独自研究」の域を出ないものです。またその時点では「恐怖の大王」や「アンゴルモワの大王」には直接言及されていないため、滅亡との関連性は不明瞭なものです。私の個人サイトにリンクを貼るのは宣伝じみていてイヤだったのですが、その辺りの話についてはこれをお読みいただければと思います。今回の加筆は、そのリンク先のコンテンツから私の個人的見解を除去する形で行ったつもりです。--Sumaru 2007年12月24日 (月) 16:03 (UTC)[返信]

「その他」について[編集]

いつの間にやら「その他」の節が加えられ、「「恐怖の大王」が解釈事例の列挙ならば、こちらも列挙にしてはならぬ事情は無いと思いますが」とコメントアウトでありますが、私は不要だと思います。

恐怖の大王は実証的な論者の見解も統一されておらず、信奉者に至っては日本も海外もみな勝手気儘という状態ですから、それらの解釈を列挙する形をとりました(とらざるをえませんでした)。

しかし、アンゴルモワの場合、実証的な論者は国内・国外を問わずアングーモワで一致していますし、信奉者についても、海外ではアングーモワかモンゴルでほぼ収斂しています(ディムデやオーヴァソンの解釈は例外的なものです)。

ジャックリー説はミリオンセラーの『ノストラダムスの大予言』で広まってしまった説ということで特筆すべき要素があると考え、あえて触れましたが、それ以外の日本POVの珍説・奇説の類に触れる必然性は余りないように思います(触れるとしてもジャックリー説の末尾あたりに「日本では、ほかにも様々な奇説が登場した」といった具合に一行触れれば十分ではないかと思います)。

質的な違いを考慮せずに「あっちがこうだからこっちも」という姿勢は、個人的には少々疑問に思います。--Sumaru 2008年2月6日 (水) 03:56 (UTC)[返信]