ギー2世 (サン=ポル伯)

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ギー2世
Guy II
サン=ポル伯
在位 1219/23年 - 1226年

出生 1197年ごろ
死去 1226年
配偶者 アニェス・ド・ドンジー
子女 ゴーシェ
ヨランド
家名 シャティヨン家
父親 ゴーシェ3世・ド・シャティヨン
母親 サン=ポル女伯エリーザベト
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ギーが戦死したアヴィニョン包囲戦(15世紀の『フランス大年代記』より、ジャン・フーケ画)

ギー2世フランス語:Guy II, 1197年ごろ - 1226年)またはギー4世・ド・シャティヨン(Guy IV de Châtillon)[1]は、事実上のサン=ポル伯(2世)[2][3](在位:1219/23年 - 1226年)[4]

生涯[編集]

ギー2世は、ゴーシェ3世・ド・シャティヨンとサン=ポル伯領の相続人エリーザベトの長男として1197年ごろに生まれた。1219年に父ゴーシェ3世が亡くなると、モンジェ=ラ=トゥールの城とサン=ポル伯領を相続したが、母エリーザベトは終身居住権を保持していた。弟のユーグはシャティヨン、クレシー、そしてシャンパーニュ伯領の執事職を継承した[5]。ギーとユーグは、父ゴーシェ3世が自らの領地を遺言執行者であるフィリップ2世・ド・ナントゥイユの後見下に置くことに同意した[6]

父親の富と名声により、ギー2世は非常に有利な結婚をすることができた。1221年、ギー2世はエルヴェ4世・ド・ドンジーの娘アニェス・ド・ドンジーと結婚した。アニェスは後のフランス王ルイ8世の長男フィリップと婚約していたが、フィリップは1218年に早世した[5]。その後、フィリップの弟ルイ(後のルイ9世)と結婚することになっていたが、この結婚は実現しなかった[6]。ギー2世との結婚は近親婚であるとして異議を唱えられたが、夫婦は教皇の認可を受けた[7]。結婚前に、ギーとユーグはフランス王フィリップ2世と協定を結び、ポン=サント=マクサンスの共同領主権をフィリップ2世に譲渡し、フィリップ2世はこれまで王の即位時にヌヴェール伯に支払う必要があったヌヴェールの償還の権利をギーらに譲った[2]

1223年、母エリーザベトはサン=ポルの統治権をギーに譲渡したが、この譲渡の正確な条件は不明である。エリーザベトは伯妃と呼ばれ続けたが、ギーは自らを「サン=ポル伯の息子」と名乗ることを好んだ[8]。1224年、ギーと弟ユーグはシャンパーニュ伯ティボー4世から、すべての城をいつでも提供できるよう強制された。つまり、封建領主であるティボー4世が必要に応じて利用できるようにする義務を負うこととなった。ギーは1224年にティボー4世のクリスマス宮廷に出席した[5]。この時のティボー4世の特許状では、ギーはサン=ポル伯とされている[9]

1225年8月、ギーは礼拝堂の建設のためにトロワシーのドムス・デイ(修道院)に年間10リーヴル・トゥルノワを寄付した。ここは最終的にラムール・デュー修道院となる[10]。妃アニェスは1225年におそらく出産中に亡くなった[11]。1226年、ギーは自分と亡き妻の魂のために、ポン=オー=ダムにシトー会女子修道院を創建した[7]。ギーは毎年、クレイエの製粉所から小麦10アルムドとモンジェの領地から10リーブルを寄付した。しかし、これは全く新しい修道院であった[7]

1226年、ギーはアルビジョワ十字軍にむけて王軍のティボー4世に従った[5]。アヴィニョン包囲戦では、8月8日に城壁に対し大規模な攻撃を指揮したが、投石を受けて戦死した[12]。ルイ8世は遺体を鉛の棺に納め、埋葬のためにロンゴーの修道院に運ぶよう命じた[2]

サン=ポル伯領は母エリーザベトに戻され、エリーザベトはそれを次男ユーグに譲った[8][13]。ギーの息子ゴーティエは母アニェスの領地を相続した[8]

子女[編集]

ギーとアニェス・ド・ドンジーの間に以下の子女が生まれた[5][14]

脚注[編集]

  1. ^ シャティヨン領主として、Evergates (2007)ではギー4世としている。しかし、Rouse & Rouse (2010)ではギー3世、Nieus (2008)ではギー2世としている。
  2. ^ a b c L'Art de vérifier les dates, vol. 3 (Paris, 1818), pp. 309–310.
  3. ^ Zezula (1976), p. 14.
  4. ^ Nieus (2008), p. 38.
  5. ^ a b c d e Evergates (2007), pp. 222–223.
  6. ^ a b Evergates (2007), p. 371.
  7. ^ a b c Berman (2018), p. 93.
  8. ^ a b c Rouse & Rouse (2010), p. 110.
  9. ^ Evergates (2007), p. 197.
  10. ^ Lester (2011), p. 157.
  11. ^ Berman (2018), p. 93による。しかしEvergates (2007), p. 223によると、アニェスは1226年に夫の死後間もなく死去したという。
  12. ^ Sumption (1978), p. 324.
  13. ^ Evergates (2007), p. 177.
  14. ^ 子女についてはBerman (2018), p. 92, fig. 5を参照。

参考文献[編集]

  • Berman, Constance Hoffman (2018). The White Nuns: Cistercian Abbeys for Women in Medieval France. University of Pennsylvania Press 
  • Evergates, Theodore (2007). The Aristocracy in the County of Champagne, 1100–1300. University of Pennsylvania Press 
  • Lester, Anne E. (2011). Creating Cistercian Nuns: The Women's Religious Movement and Its Reform in Thirteenth-Century Champagne. Cornell University Press 
  • Nieus, Jean-François (2008). Les chartes des comtes de Saint-Pol (XIe–XIIIe siècles). Atelier de recherche sur les textes médiévaux. 11. Brepols. doi:10.1484/M.ARTEM-EB.5.105709. ISBN 978-2-503-52845-8 
  • Nieus, Jean-François (2012). “Élisabeth Candavène, comtesse de Saint-Pol (†1240/47): une héritière face à la Couronne”. In Éric Bousmar; Jonathan Dumont; Alain Marchandisse et al.. Femmes de pouvoir, femmes politiques durant les derniers siècles du Moyen Âge et au cours de la première Renaissance. De Boeck. pp. 185–211. https://www.academia.edu/1945610 
  • Rouse, Richard; Rouse, Mary (2010). “French Literature and the Counts of Saint-Pol, ca. 1178–1377”. Viator 41 (1): 101–140. doi:10.1484/j.viator.1.100569. 
  • Sumption, Jonathan (1978). The Albigensian Crusade. Faber and Faber 
  • Zezula, Jindrich (1976). “L'élément historique et la datation d'Anseÿs de Mes (ms. N)”. Romania 97 (385): 1–22. doi:10.3406/roma.1976.7188. https://www.persee.fr/doc/roma_0035-8029_1976_num_97_385_7188. 
先代
ゴーシェ3世
サン=ポル伯
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次代
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