エリカ・サルミャーエ

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獲得メダル

エリカ・サルミャーエ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
女子 自転車競技
オリンピック
1988 ソウル 個人スプリント
世界選手権自転車競技大会
1987 ウイーン 個人スプリント
1989 リヨン 個人スプリント
1984 バルセロナ 個人スプリント
1986 コロラドスプリングス 個人スプリント
 エストニア
女子 自転車競技
夏季オリンピック
1992 バルセロナ 個人スプリント
世界選手権自転車競技大会
1995 ボゴタ 個人スプリント

エリカ・サルミャーエ(Erika Salumäe、1962年6月11日- )は、エストニアパルヌ出身の元女子自転車競技トラックレース)選手。1988年ソウルオリンピックではソビエト連邦の代表選手として、1992年バルセロナオリンピックではエストニア代表選手として、いずれも個人スプリントで金メダルを獲得した。

来歴[編集]

サルミャーエが頭角を現した当初は、アメリカ合衆国コニー・パラスケヴィンが個人スプリント種目の代表格的選手であったが、スピードスケートの短距離選手で、1984年サラエボオリンピック・500m金メダリストである、旧東ドイツのクリスタ・ローテンブルガー(後のクリスタ・ルディンク)が自転車競技にも注力をするようになるや、その後事実上の三強時代となった。

1984年1986年世界自転車選手権ではそれぞれパラスケヴィン、ローテンブルガーに次いで2位だったが、1987年の同大会において、決勝でローテンブルガーを破って悲願の初優勝。翌、1988年のソウルオリンピックでも事実上の三強対決となったが、決勝で対決したクリスタ・ルディンクと1-1で迎えた3本目において、ゴール寸前で逃げるルディンクを捕らえて交わし、オリンピック女子個人スプリント種目初代優勝者の座に就いた。翌1989年の世界選手権でも優勝を果たしたものの、その後発生することになる、ソビエト連邦の崩壊の影響もあって一時現役を退く形となってしまった。

1991年にエストニアが独立回復を果たすと、サルミャーエはエストニア国籍選手として、翌1992年開催のバルセロナオリンピック・個人スプリントに出場し、ドイツアネット・ノイマンを破って同種目連覇を達成した。1996年アトランタオリンピックでも個人スプリントに出場したが6位となり、このレースを最後に現役を引退した。なお、エストニア最優秀選手賞を9回受賞した他、15回の200mフライングタイムトライアル世界最高記録も樹立した。

2013年11月4日、腰の手術に必要な医療費の捻出のため、上記2大会で獲得したオリンピックの金メダルを競売にかけ、約5万ポンド(約800万円)で売却した[1]

脚注[編集]

外部リンク[編集]