エグフリス (マーシア王)
エグフリス Ecgfrith | |
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![]() 聖オルバンズ修道院の寄進者録に描かれたエグフリス(1380年ごろ) | |
在位 | 796年7月29日 - 796年12月 |
父親 | オファ |
母親 | キュネスリス |
エグフリス(英語: Ecgfrith、古英語: Ecgfrið、在位796年7月29日 - 796年12月)は、七王国のひとつマーシア王国の王。エグフリッド[1]、エッグフリート[2]、エグフェルト[3]、エジュヴェルス[4]とも。
イングランドの覇権を握ったマーシア王オファと王妃キュネスリス(Cynethryth)のもとに生まれ[5]、787年に王として聖別された[4]。これはイングランドの王として記録が残る最初の聖別式(聖祓の儀式[1]、戴冠式、consecration)で、おそらくは父オファがカール大帝(シャルルマーニュ)の息子が781年に教皇によって聖別されたのを模倣し行ったものであり[5][6]、王権に超越性、神聖性を付与することを意図したものであった[1]。789年ごろ、オファはエグフリスとシャルルマーニュの娘ベルト(Bertha)との婚姻を画策したが、シャルルマーニュはこの申し出に激怒し計画は頓挫したという[7]。
エグフリスはオファが796年7月29日に死去した後マーシア王位を継承したが、同じ年のうちに死去した。『クロウランド年代記(Croyland Chronicle)』には「彼(エグフリス)は病魔に襲われ、この世を去った」と記されており、その在位はわずか141日間であった[8]。
エグフリスの死後、マーシア王となったのはオファとは遠縁のコエンウルフであった。これはおそらくオファが我が子エグフリスのライバルたちを排除するため近親者を殺したためである。同時代の人物でシャルルマーニュの顧問などもしていた修道士アルクィンの書簡には次のような一節がある[9]。
- かの高貴な若者が死去したのは、彼の罪によるものではなく父親が流した血の復讐が息子に届いたのです。あの父親が息子に間違いなく王国を継がせるためにどれほどの血を流したか、あなたもご存じでしょう[5]。
アルクィンはさらにこう付け加えた「このことは、王国を強くするというよりもむしろ崩壊させる行いでした」[10]。
脚注[編集]
- ^ a b c 青山吉信「第4章 イングランド・スコットランド・ウェールズの形成」『イギリス史1 先史~中世』山川出版社、1991年、101頁。ISBN 978-4634460102。
- ^ 渡辺節夫『フランスの中世社会 王と貴族たちの軌跡』吉川弘文館、2006年、135頁。ISBN 978-4642056168。
- ^ 伝ネンニウス 著、瀬谷幸男 訳『ブリトン人の歴史』論創社、2019年、55頁。ISBN 978-4846018610。
- ^ a b 大沢一雄『アングロ・サクソン年代記』朝日出版社、2012年、69頁。ISBN 978-4255006840。
- ^ a b c Ann Williams (1991). "Ecgfrith king of Mercia". In Ann Williams; Alfred P. Smyth; D. P. Kirby (eds.). A Biographical Dictionary of Dark Age Britain. Seaby. ISBN 1 85264 047-2。
- ^ Kelly, S. E. (2007). "Offa (d. 796), king of the Mercians". Oxford Dictionary of National Biography. Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/52312. 2012年7月22日閲覧。 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入)
- ^ Stenton, Anglo-Saxon England, p. 220.
- ^ Swanton, Anglo-Saxon Chronicle, p. 50.
- ^ Lapidge, "Alcuin of York", in Lapidge et al., "Encyclopaedia of Anglo-Saxon England", p. 24.
- ^ Letter of Alcuin to Mercian ealdorman Osbert, tr. in Whitelock, English Historical Documents, p. 787
外部リンク[編集]
先代 オファ |
マーシア王 796年 |
次代 コエンウルフ |