高山飛騨守

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高山友照
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不詳
死没 文禄4年(1595年
別名 大慮(号)、飛騨守、図書
霊名 ダリオ
主君 松永久秀和田惟政惟長荒木村重
氏族 高山氏
父母 父:高山重利
兄弟 友照中川重清
右近太郎右衛門、娘(和田惟政室)
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高山 友照[1] (たかやま ともてる)は戦国時代の武将。最初期のキリシタン大名の一人として、息子の高山右近(重友)とともに知られる。

生涯

摂津嶋下郡高山村(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)の土豪の出自といわれ、大和国宇陀郡の沢城の城主として知られる。武将として勇猛で、教養もあり、領民にも慕われ、誠実な「武士の鑑」として同時代人に知られた。壮年期は松永久秀に仕えた。

友照のキリスト教との出会いはドラマティックなものだった。イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラを訪問することを知った僧侶たちは領主松永久秀に宣教師の追放を依頼した。久秀は問答無用で追放するのではなく、宣教師と仏教についての知識のあるもので議論させた上で、なにか不審な点があれば追放しようと考えた。そこで清原枝賢に議論の相手をさせることにし、仏教に造詣の深い友照と結城忠正(山城守)の二人を討論の審査役とした。

キリシタン側でこの討論をすべく奈良へやってきたのは琵琶法師出身のロレンソ了斎であった(ヴィレラは命の危険があるとして周囲の人間に引き止められた)。ところが、ロレンソと枝賢が議論を続ける中で二人の審査役が、すっかりキリスト教の説く教えの合理性や奥深さに惚れ込んでしまった。こうして友照はヴィレラを沢城に招いて家族とともに洗礼を受けるという結末になった。このとき、嫡子の彦五郎(後の右近)も洗礼を受けている。

その後、摂津の状況が大きく変化する。永禄11年(1568年)、織田信長足利義昭を奉じて上洛し、高山親子は高槻城和田惟政の組下につけられた。ところが惟政は池田氏との争いで討死(白井河原の戦い)、高槻城はまだ若年だった惟政の子・惟長が引き継いだ。これを好機と見た高山親子は1573年元亀4年)4月、惟長を追放し、自らが高槻城主となった。この際、摂津の実権を握りつつあった荒木村重の重臣に甥の中川清秀がいたこともあり、これらの承諾を得て、大きな混乱もなくこの追放劇は実現したと考えられる。

こうして摂津の北辺・高槻周辺は高山親子の所領となった。友照が宣教師らの布教を保護したこともあり、彼の治世に高槻ではキリシタンが増加した。天正6年(1578年)に荒木村重が信長に対して叛旗を翻すと、組下であった高山親子も高槻城に拠って信長に反抗したが、これ以前に信長に反旗を翻すか否かの会議上において、友照の娘(右近の妹)と右近の息子を「謀反はするべきではない」という主張を通す為に人質として荒木方に差し出していた事、信長が降伏しなければキリシタンを迫害すると通達した事などにより、信長に降伏すべき(右近派)という派閥と、徹底抗戦するべき(友照派)という派閥が対立。キリシタンとしての心情と、人質を取られているという板挟みの中、結果として右近が単身城を出て降伏してしまった(右近は当主の地位を父に返上し、自分が信長に降る事で宣教師らの安全を守り、荒木方に父を残す事で人質の安全を図ったのである)。村重が逃亡すると、抗戦した友照は捕縛され、処刑されるところであったが、右近らの助命嘆願によって越前への追放処分で済んだ。越前では柴田勝家から客将として扱われ、建前上は幽閉の身であったが、相応の金子を与えられ自由に過ごしていたという。

信長死後は右近に従って各地を転々としていたようであるが、文禄4年(1595年)に京で熱心なキリシタンとしてその生涯を閉じた。

関連項目

脚注

  1. ^ 諱は「友照」で広く知られるが、発給文書等の裏付けはない。署名などは「高山飛騨守」としている。