顔之儀

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顔 之儀(がん しぎ、523年 - 591年)は、中国南北朝時代文学者政治家は子升。本貫琅邪郡臨沂県顔之推の兄。

経歴

南朝梁の湘東王府記室参軍の顔協の子として生まれた。幼くして聡明で、3歳で『孝経』を読むことができたとされる。成長すると、書物を広く読み、詞賦を作るのを好んだ。元帝に「神州頌」を献上して、賞賛を受けた。

554年承聖3年)、西魏于謹江陵を平定すると、之儀は長安に連行された。北周明帝のときに麟趾学士となり、司書上士に転じた。572年建徳元年)、武帝宇文贇皇太子に立てると、之儀は太子侍読となってその師をつとめた。576年(建徳5年)、宇文贇が吐谷渾を征討すると、之儀はその下で従軍した。宇文贇には軍中での過ちが多く、武帝は太子を教導できなかった鄭訳らを譴責したが、之儀に対しては諫言をつづけたことを評価して賞与を与えた。之儀は小宮尹の位を受け、平陽県男に封じられた。578年宣政元年)、宇文贇(宣帝)が即位すると、之儀は上儀同大将軍・御正中大夫の位を受け、爵位は公に進んだ。宣帝の政治は乱れたので、之儀は面と向かって諫めつづけ、容れられることはなかったが諫言を止めなかった。579年大象元年)、宣帝が王軌を処刑すると、之儀はやはり諫言したため、宣帝の怒りを買った。

580年(大象2年)、宣帝が死去すると、劉昉や鄭訳らが遺詔といつわって楊堅丞相に立て、静帝を輔弼させた。劉昉らは偽の草詔を見せて、之儀に連署を迫ったが、之儀は宣帝の意向ではないと知って、服従を拒否した。楊堅の怒りを買って、西疆郡太守に左遷された。

581年開皇元年)、楊堅(の文帝)が即位すると、之儀は長安に召還され、爵位は新野郡公に進んだ。585年(開皇5年)、集州刺史に任じられた。586年(開皇6年)、長安に召還されると致仕した。591年(開皇11年)冬、死去した。享年は69。文集10巻が残された。

伝記資料