順陽丸

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船歴
起工
進水 1913年12月[1]
竣工
その後 1944年9月18日戦没
主要目
総トン数 5,065トン[1]
載貨重量トン数 8,443トン[1]
全長 134.39 m[1]
垂線間長
型幅 16.08 m[1]
型深 9.07 m[1]
吃水 (満載平均)7.37 m[1]
(空船平均)2.29 m[1]
主機 三連成機関 1基1軸[1]
出力 (最大)1,684馬力[1]
航海速力 7.5ノット[1]
最高速力 11.1ノット[1]
乗員 41名[1]

順陽丸(じゅんようまる)は、日本貨物船。太平洋戦争の時期には捕虜労務者を強制労働のため各地へ運ぶ輸送船(こうした船は連合軍からは「ヘルシップ(地獄船)」と呼ばれた)となっていたが、1944年9月18日インドネシアの沖合でイギリス海軍潜水艦の雷撃を受けて沈没し、多数の死者を出した。

「順陽丸」は1913年(大正2年)にグラスゴーのロバート・ダンカン造船所(Robert Duncan Co.)で建造された[1]。当初はイギリスの Lang & Fulton 社の「Ardgorm」、1917年(大正6年)よりNorfold North American Steam Shipping 社の「Hartland Point」、1919年(大正8年)より Anglo-Oriental Navigation Co. Ltd 社の「Hartmore」、1927年(昭和2年)より日本の三陽社合資会社の「順陽丸」となり、1929年(昭和4年)に樺太汽船に売却、1938年(昭和13年)からは馬場商事の所有となった。貨物船であったが、定員2名の一等客室も備えていた[1]。その後日本陸軍に徴用され[2]、輸送船としては寝棚640床を有して軍馬を484頭収容でき[1]小発動艇を28隻搭載できる[3]能力とされていた。後に捕虜の輸送船となり、捕虜収容用に甲板や貨物室に竹製の甲板を増設した。

「順陽丸」はペカンバル-ムアロ間のスマトラ横断鉄道の建設に投入される1,377名のオランダ人捕虜と64名のイギリス人(オーストラリア人含む)捕虜、8名のアメリカ人捕虜と4,200名あまりのジャワ人労務者を乗せて、1944年(昭和19年)9月16日にジャワ島バタヴィアのタンジョンプリオクを出港。9月18日、南緯02度53分 東経101度11分 / 南緯2.883度 東経101.183度 / -2.883; 101.183の地点にさしかかったところでイギリス潜水艦「トレードウィンド」(HMS Tradewind)の雷撃で沈没した。これは5,620名が死亡する当時世界最大規模の海難事故となった。680人ほどの生き残った捕虜はスマトラ横断鉄道の現場に送られたが、終戦まで生き延び、救出されたのはわずか100人たらずだった。[4]

脚注

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050083800『昭和十八年度版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、p .42頁。 
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • 戦前船舶研究会『戦前船舶資料集 第113号』戦前船舶研究会、2007年。 
  • "Eresaluut boven massagraf : Junyo Maru de -vergeten- scheepsramp", E.Melis (met de medew. van W.F. van Wamel en Th. Jansen), 1985, ISBN 90-9400414-3
  • "Een ooggetuigeverslag van de torpedering van de Junyo Maru en de dwangarbeid van de overlevenden aan de Pakanbaroe Spoorweg", F.F.E. von Fuchs, 1994

外部リンク