ヘルシップ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
鴨緑丸。当時の日本では貴重な客船で、捕虜1600人のほか日本の民間人・軍人1900人を輸送中に攻撃を受け損傷。沈没前に多くは下船できたが、生存捕虜は別の船で再移動中にまたも撃沈された。

ヘルシップ英語: hell ship、地獄船)とは戦争捕虜などの囚人が輸送された無標識の商船のこと[1]

日本においては、主に日本軍第二次世界大戦中に連合国捕虜フィリピンシンガポールから輸送するために使った船のことを指す。輸送された捕虜たちは日本台湾満州朝鮮においてハーグ陸戦条約6条による労務者として使役された。

概要[編集]

ヘルシップ(地獄船)という語は用語としては敵国側からの一種のプロパガンダ、あるいは平和時における文芸表現の一種でありヘルシップなる船種が存在したわけではない。古くはアメリカ独立戦争期におけるHMSジャージーは刑務所として使用され、そのあまりにひどい待遇環境から"hell"と渾名された。1936年にはアメリカで映画Hell-Ship Morganが作成されたが、これは戦争とは無関係の文芸作品である。

第二次大戦期には当初はドイツの捕虜の戦時輸送をさす語として使われた。1940年2月16日にノルウェーフィヨルドイギリス海軍の駆逐艦コサックの乗組員がドイツの補給艦アルトマルクに乗り込み(後にアルトマルク号事件として知られる)、ポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーによって沈められた船から助け出された約300人のイギリス商船の船員を解放したとき、アルトマルクはイギリスの新聞によってよく「ヒトラーのヘルシップ(地獄船)」あるいは「ナチのヘルシップ(地獄船)」と呼ばれた[2][3]

このほか、オランダ領東インド政府が、在留日本人をオーストラリアへ移送した際の船内待遇も過酷で、オーストラリアではカルカッタの土牢(カルカッタの黒穴。en:Black Hole of Calcutta[4])と呼ばれた。同様に在留ドイツ人も抑留・護送され、1942年1月には輸送船の沈没時にドイツ人抑留者多数が見殺しにされたファン・イムホフ号事件が発生している。

日本のヘルシップ[編集]

東南アジア占領地域からの捕虜の移送は1942年1月から開始され、連合国軍の包囲が進むにつれ東南アジアのシーレーンは連合国潜水艦による無差別雷撃や航空機による空襲、機雷敷設などにより阻害されるようになった。日本の輸送用船舶は消尽し、捕虜はしばしは空気や食糧、水が殆どない状態で船内に詰め込まれて航海を続けるという状況に置かれた。移送された捕虜はイギリス・オランダ・アメリカ・オーストラリア兵達であり、一般労務者や日本兵なども輸送中に攻撃を受け遭難した。ある推計によれば合衆国軍に攻撃されたヘルシップの被害により3,600人の合衆国人民が殺害されたという[5][要高次出典]

こうした捕虜輸送船には赤十字の標識はされておらず、連合国の潜水艦や航空機の標的となった。多数の捕虜を乗せた状態で遭難した事例としては、ヒ72船団で沈んだ「勝鬨丸」と「楽洋丸」をはじめ、「りすぼん丸」「阿里山丸」「鴨緑丸」「江ノ浦丸」「順陽丸」などが挙げられる。被害の特に大きな例として、捕虜約1400人と労務者約4200人を移送中に撃沈された「順陽丸」では日本人船員69人を含む5689人が戦死したほか[6][7]、捕虜だけに限ると「阿里山丸」で乗船捕虜1781人のほとんどが死亡している。

もっとも、輸送時の厳しい船内環境は日本軍が自軍の将兵を輸送する場合と同じであり、戦時徴用された一般労務者や移送中の日本兵たちにとっても「ヘルシップ」であることに違いは無かった。当時の日本は、人員輸送に適した客船を少数しか保有しておらず、貨物船を人員輸送にも使用するしかなかった。貨物船を軍隊輸送船として使用する場合、船倉に蚕棚と呼ばれる多段式の寝台を設置して兵員を乗船させており、捕虜輸送時にもこの種の輸送船がそのまま利用された。5000総トン程度の中型貨物船でも、大量の軍需物資に加えて、3000~5000人の兵員を乗船させることはごく普通の運用であった[8]。こうした貨物船改装船では、換気も給水も照明も不十分となり、沈没時には脱出が困難で多数の死傷者が出る結果を招いた。例えば、軍隊輸送船「富山丸」の場合、約4000人が乗船中に撃沈され、うち3700人以上が戦死している。1944年8月27日-9月8日にかけてマニラから日本へ捕虜1060名を輸送した「能登丸」の場合(マモ02船団)、護送部隊は100名ほどであり、沈没時には日本軍兵員・乗組員より捕虜の方が数的優勢という事態になる[9]。そこで米潜水艦の雷撃を受けて沈没する場合には、ハッチをしめて沈めてしまうという密約があった[10]。ただし午前・午後の2回にわけて捕虜全員を上甲板に出し、水浴びをさせるという対応も行っている[11]。昼食は毎日カレーライスであった[11]

脚注[編集]

  1. ^ 「外国の立法240.2009.6」国立国会図書館調査及び立法考査局[1]P.3
  2. ^ The Northern Mariner XI, No. 1 (January 2001), page 54
  3. ^ "The Rule of Law in International Affairs" (Brian Simpson 2003), page 215
  4. ^ 18世紀に、インドのベンガル太守軍の捕虜となったイギリス人が、地下牢に監禁され多数が死亡した事件。
  5. ^ 外国の立法240.2009.6」国立国会図書館調査及び立法考査局[2]P.3
  6. ^ 順陽丸 - 戦没した船と海員の資料館。
  7. ^ 乗船した捕虜を2143人とするウェブサイトもある。[3]
  8. ^ 大内、338頁。乗船者3000人というと、貨客船氷川丸(1万2千総トン)の乗員乗客定員の6倍にあたる。
  9. ^ #特攻船団158頁
  10. ^ #特攻船団159頁
  11. ^ a b #特攻船団161頁

参考文献[編集]

  • 宇野公一 『雷跡!!右30度 特攻船団戦記』 成山堂書店、1977年
  • 大内建二『商船戦記』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年。
  • American POWs on Japanese Ships Take a Voyage into Hell”. Prologue Magazine. 2005年12月20日閲覧。
  • Hell Ships”. Britain at War. 2008年1月16日閲覧。
  • Ref. USNational Archives, Mil. Hist.Div. POW diary of Capt. Paul R.Cornwall,41-45,File 999-2-30 Bk.6 and unpublished letters.

関連項目[編集]