難波京

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難波京(なにわきょう、なにわのみやこ)は、古代日本において難波の地に設営された都城である。飛鳥時代に宮が設置された(前期難波宮)が、京の存在は確認できていない。奈良時代に設置された宮(後期難波宮)と合わせて京として実質を伴ったとする見解が有力である。

沿革

古代の主要交通路だった瀬戸内海の東端に位置する難波には古くから倭国王の王宮が営まれており、古墳時代には仁徳天皇が最初に難波に宮を置いたとする伝承があり(『日本書紀』)、飛鳥時代には孝徳天皇難波長柄豊埼宮を設けた。

奈良時代前期の726年神亀3)、聖武天皇藤原宇合に命じ、難波宮に瓦葺の離宮を造営した。744年天平16)には恭仁京から難波宮への遷都が実施された。この時期に、難波宮の周辺に京域、すなわち難波京も造営されたと考えられている。発掘調査によれば、奈良時代の後期難波宮周辺には正東西南北方位(正方位)にのびる溝が広い範囲で多数検出されており、建物跡も正方位に築かれたものが多い。さらに、溝からは墨書土器を含む多数の土器が出土しており、相当数の人間が生活していたことが想定されている。また、官人へ宅地を支給したとする記録もある(『続日本紀』)。これらのことから、難波京の存在はほぼ確実視されている。

聖武天皇は遷都の翌年745年に再び平城京に遷るが、その後も副都(陪都)として、また遣唐使の港として栄え、長岡京遷都に至り副都としての難波京を廃止し、摂津国府に転じ難波京の歴史に幕を閉じた。

関連項目

先代
恭仁京
日本の首都
744年
次代
紫香楽宮