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雍闓

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(よう がい、? - 224年)は、後漢末期から三国時代にかけての人物。『三国志』蜀志「呂凱伝」等に記録がある。益州郡(建寧郡)の人。

生涯

前漢の武将の雍歯の末裔とされている(「呂凱伝」)。

元は益州南部を支配していた豪族であった。

益州を支配するようになった劉備の死後、(蜀漢)の支配を受けることに抵抗し太守正昂を殺害、張裔を捕縛して反乱を起こした。李厳は手紙を送って説得を試みたが、雍闓は「天には二つの太陽は無く、地には二人の王はいないという。しかし今は天下が三分されており、遠くの者は誰に属したらいいものか分からず戸惑っているのです」と答えたという。

反乱は隣接する郡にも広がり、朱褒高定といった人物もこれに同調した。ただし永昌郡だけはこれに同調しなかった。

雍闓はに服属していた交州士燮を通じて呉の孫権への帰服を申し出た。この時、先に捕えていた張裔を呉に送っている。呉の交州刺史であった歩隲の取次ぎも受け、雍闓は孫権から永昌太守に任命された。

雍闓は高定と共に永昌郡を襲撃したが、領民をまとめ郡境を塞いだ呂凱に侵攻を阻止された(「呂凱伝」)。

これを受けて諸葛亮による討伐が計画されたが、雍闓は討伐軍が来る前に高定の部下に殺害されてしまった。

三国志演義

小説『三国志演義』では、劉備の没後に南蛮王孟獲の扇動を受けて反乱を起こした益州南部3郡の太守の一人として登場する。諸葛亮の南蛮征伐軍に抵抗するが、諸葛亮の調略にかかった高定の部下である顎煥に斬殺されている。