朱褒
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朱 褒(しゅ ほう、生没年不詳)は、後漢末期から三国時代にかけての蜀地方の人物。牂柯郡あるいは朱提郡の人。『三国志』蜀書の本文においては「後主伝」にわずかに記述されている。大部分は『華陽国志』に記されている。
[編集] 略歴
牂柯郡の郡丞[1]だったが、自ら太守と称して、蜀漢に反旗を翻した。
また越嶲郡では、タイ族系叟族の酋長の高定も、越嶲太守の焦璜を惨殺して建寧郡の豪族の雍闓に呼応した。既に雍闓は永昌太守の張裔を捕らえて、呉に送った後であった。
南夷で大規模の反乱が起こった報を聞いた蜀漢の丞相の諸葛亮は直ちに劉禅に上奏した。まず、益州従事の常頎[2]を派遣させた。現地に到着すると、ただちに常頎は朱褒の配下である主簿らを裁いて直ちに処刑した[3]。自分の部下が常頎によって刑死されたことに激怒した朱褒は、常頎を殺害した。
この容易ならぬ事態を悟った諸葛亮は、朱褒を懐柔するために、常頎の息子たちを斬首して詫びたが、それでも朱褒の気持ちを変えることはできなかった。間もなく朱褒は、雍闓・高定らの招きに応じて謀反を起こした。
224年春3月、ついに諸葛亮自らが西南夷に遠征した。まずは馬忠・李平(李厳)を先鋒として、自分は李恢と共に南方に向かった。
こうしているうちに高定は雍闓と内訌を起こして、部下に雍闓の殺害を命じてしまう。そして、間もなく高定は諸葛亮と李恢率いる漢の本隊に敗れて処刑されてしまう。一方、朱褒も馬忠の漢軍と戦い大敗し、捕虜となってしまった。
ただ、彼の場合は高定の処置と違い、そのまま監禁された。翌225年に諸葛亮が孟獲を降服させた後は、何故か特別な計らいで朱褒を正式な太守に任命した。
[編集] 演義
『三国志演義』では、朱褒は初めから牂柯郡太守として登場する。また、この諸葛亮の処置は正史とは正反対である。演義で高定は助命され昇格したが、朱褒はその逆でかえって殺害されてしまう設定となっている。

