陳曾熙
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(陳曽熙から転送)
陳曾熙(ちん そき、中国語: 陳曾熙、英語: T.H. Chan、1923年[1] - 1986年3月8日[2])は、香港の実業家。不動産開発会社・恒隆集団と同社子会社の恒隆地産の創業者および初代董事長[3][4]。中華人民共和国広東省順徳市(現:仏山市順徳区)出身[3]。
ハーバード公衆衛生大学院は陳の名を冠する。
弟は陳曾燾[5]、長男は陳啓宗(現在の恒隆集団および恒隆地産の董事長)[6]。
来歴
[編集]1923年[1]に中国広東省順徳市(現:仏山市順徳区)で生まれ、1948年に広州市から香港に移住し、永隆銀行(現:招商永隆銀行)で働いていた[3]。
第二次世界大戦前に日本に留学し、土木工学を学んだ[6][7]。戦後、広東省に戻って全ての物件を売却し、香港で開発を行い、建設工学の事業を行っていた[1]。
1950年代初頭、陳曾熙、林汝珩、陳德泰、康有為は建設および不動産業界に大きな影響を与えることを望み、大隆建築公司を共同で設立したが、後に事業思想は彼ら自身のものとは異なっていた[1]。林汝珩の死去と陳德泰が会社を退職したことにより、陳曾熙は自身の事業を立ち上げることを決め、1960年9月13日に陳曾燾と共に恒隆集団と恒隆地産を設立した[6][8]。
1985年、重病であることが発覚した。1986年初めにクイーンエリザベス病院に入院したが、同年3月8日に死去[2]。63歳没[9]。陳曾熙の死去後、陳曾燾が恒隆集団を引き継ぎ、1991年に陳啓宗が同社の董事長に就任することになった[10]。
脚注
[編集]- ^ a b c d “此人每年在国内捞金数十亿,给美国捐200亿后,“报应”就来了?”. 新浪新闻. 新浪 (2019年11月12日). 2021年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月4日閲覧。
- ^ a b “日前病逝伊院 陳曾熙遺體出殯 遺屬遵囑設立紀念基金”. 大公報第二張第七版. (1986年3月11日)
- ^ a b c “恒隆集團創辦人陳曾熙:白手興家 成就香港「第一」和「唯一」”. 恒隆集団 (2020年9月13日). 2021年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月4日閲覧。
- ^ “以客為尊”. 恒隆集団. 2021年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月4日閲覧。
- ^ “恒隆集團致股東函(2019年報)|陳啟宗:溫故與知新,恒隆這60年”. 觀點地產網 (2020年3月25日). 2021年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月5日閲覧。
- ^ a b c “陳啓宗:眠れる大財閥から、香港最大手デベロッパーへ(1ページ目)”. Searchina. エキサイト (2008年7月7日). 2021年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月4日閲覧。
- ^ “恒隆地産がジャパンデニムとミッキーをテーマにイベント 香港側からのアプローチで”. 香港経済新聞. みんなの経済新聞 (2019年12月18日). 2021年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月4日閲覧。
- ^ “香港思源基金会捐赠500万元支持我校发展”. 上海交通大学教育发展基金会 (2008年8月15日). 2021年11月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月5日閲覧。
- ^ “最和谐豪门:哥哥临终,将企业交给弟弟,多年后,弟弟又还给侄子”. 百年沧桑. 网易 (2020年8月11日). 2021年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月5日閲覧。
- ^ “陳啓宗:眠れる大財閥から、香港最大手デベロッパーへ(2ページ目)”. Searchina. エキサイト (2008年7月7日). 2021年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月12日閲覧。
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