野田忠二郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。はすかっぽ (会話 | 投稿記録) による 2022年7月23日 (土) 00:26個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (出典の追加)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

野田 忠二郎(のだ ちゅうじろう、1908年4月1日 - 1992年11月10日)は、阪神電気鉄道社長大阪府大阪市出身。

来歴・人物

1908年(明治41年)大阪府生まれ。大阪高等学校 (旧制)を卒業後、京都帝国大学工学部電気工学科に入学し、1930年昭和5年)に同校を卒業[1]、同年に阪神電気鉄道に入社した[2]

技術者として、大型新造車の投入、ジェット・カーの開発などの車両の近代化を進めた[2]1968年(昭和44年)1月12日に社長に就任し、輸送の近代化と乗客サービスの向上に取り組んだ[2]。1978年(昭和53年)6月からは会長に就任[3]

一方で、1974年(昭和49年)から1979年(昭和54年)までに阪神タイガースのオーナーを務めた[4]

1979年には勲二等瑞宝章を受章した[5]

1992年(平成4年)11月10日心不全ために西宮市内の病院で死去。享年84歳[5]

脚注

  1. ^ 野田忠二郎『出身県別 現代人物事典 西日本版』p969 サン・データ・システム 1980年
  2. ^ a b c 阪神電気鉄道 百年史 p298
  3. ^ 阪神電気鉄道 百年史 p398
  4. ^ 1974年10月26日 読売新聞 朝刊 p17
  5. ^ a b 1992年11月11日 日本経済新聞 朝刊 p35
先代
福西清
阪神電気鉄道社長
第13代:1968年 - 1978年
次代
田中隆造