酒田大火

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酒田大火
酒田大火による焼失区域周辺の約1100メートル四方を写した航空写真。暗くなっている部分が焼失区域、赤色の丸印が火元となった映画館のグリーンハウス、緑色の丸印が山形地方法務局酒田支局。1976年9月16日撮影。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
現場 山形県酒田市
発生日 1976年(昭和51年)10月29日
17時40分頃
類焼面積 22.5ha
原因 ボイラーの失火
死者 1人

酒田大火(さかたたいか)は、1976年昭和51年)10月29日山形県酒田市で発生した大火。この火災で酒田市内中心部の商店街約22万5000平方メートル(22.5ha)を焼失した。

概要

1976年(昭和51年)10月29日17時40分頃、酒田市中町2丁目にあった映画館グリーンハウス」のボイラー室から出火。すぐに観客20名は避難したが当日の酒田市は風が強く、またたく間に隣接していた木造ビルや木造家屋に燃え広がった。火災は西よりの強風(元々酒田市周辺は、日本海から内陸部への風の通り道であり、出火時も風速12.2mの風が吹いていた)によって更に範囲が拡大していく。

また、その強風により大量の飛び火や火の粉が発生し、消火活動が思うように進まなかった。

翌日30日の午前3時には 新井田川まで迫ったものの、対岸からの直上放水と雨の影響で延焼を食い止め、午前5時に鎮火した。

被害

市の中心部を含め1767棟が焼失し、被害総額は約405億円にも上る。死者1名、被災者約3300名。

なおこの火災による唯一の死者は、当時の酒田地区消防組合消防長で、火災発生2日後に火元とされる映画館で発見された。証言によると火災発生の知らせを自宅で受け、通りがかりの車に便乗して現場に到着後、人命検索のため進入し煙に巻かれたものとされる。

山形地方法務局酒田支局にも延焼危険が生じたため、数万冊に及ぶ各種登記簿の搬出が計画され、陸上自衛隊隊員30名が派遣されたが、時間的物理的に搬出不可能と判断された。そのため酒田支局長は独断で、最悪の場合事務所棟を破壊し登記簿等の保管庫を守ることを決意し、伝手を頼ってショベルカーを手配し、陸自隊員も破壊準備にあたった。その後山形地方法務局長とも電話連絡が取れ、局長からも登記簿防衛が最優先、最悪の場合庁舎破壊を許可する旨口頭での了解を得たが、火の向きが変わり延焼は免れた。

復興活動

鎮火した翌日の10月31日早朝から、酒田市役所において、山形県・庄内支庁建設部・酒田市都市計画課・建設省などにより「火災復興都市計画」の作業が開始された。この作業は大変スピーディーに行なわれ、翌日の11月1日には「防災都市づくりの計画概要」が完成した。この復興計画は「防災都市の建設」を柱とし、「将来交通量に対応した幹線道路の整備」「近代的な魅力ある商店街の形成」「住宅地の生活環境の改善整備」「商店街と住宅街の有機的な結びつけ」を掲げていた。特に商店街の復興に合わせた災害に対する整備と緑地化が積極的に行われ、わずか2年半後の1979年には復興式典が行なわれている。

災害派遣で出動した自衛隊が道路啓開作業のため、被災地区の残骸撤去を行う[1] 。この種の活動は通常は行われないが、突然の火災で全てを失った被災者のために法律解釈を変更して実施した。

また、この短期間での都市復興は、1995年に発生した阪神・淡路大震災において参考とされた。

当地出身の岸洋子は義捐のリサイタルを各地で催し、800万円を寄付した[2]

脚注

  1. ^ 第4編 1976(昭和51)年の酒田大火 113頁 (PDF) 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成18年3月 「1976 酒田大火」 内閣府防災情報
  2. ^ 庄内の人物-酒田河川国道事務所”. 国土交通省東北地方整備局酒田河川国道事務所. 2011年11月3日閲覧。

関連項目

外部リンク