鄭楷

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鄭楷
端南王鄭楷(『鄭家正譜』より)
各種表記
漢字チュノム 鄭楷
北部発音: チン・カイ
日本語読み: てい かい
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鄭楷(てい かい、景興24年(1763年) - 景興47年(1786年))は、後黎朝大越の権臣、東京鄭氏の第12代当主。初名は鄭棕(てい そう)。

生涯

靖都王鄭森と正室楊氏玉歓の間に長男として生まれ、世子に立てられた。しかし晩年の鄭森は愛妾・鄧氏恵の讒言を信じて鄭棕を廃嫡し、鄧氏恵が産んだ弟のを冊立した。

景興43年(1782年)9月に鄭森が死去し、鄭が跡を継いだ。11月、阮朋三府兵を率いて摂政の大臣黄廷宝を殺害し、鄭棕を擁立した(三府軍の乱)。鄭棕は名前を鄭楷に改め、朝廷から端南王に封じられた。景興47年(1786年)、西山朝阮恵が鄭氏内部の不和に乗じる形で北方へ侵攻してきた。敗北した鄭楷は昇龍を脱出したが、西山軍の捕虜となった。敵の虜囚となったことを恥辱と感じた鄭楷は、昇龍へ連行される途中で自刃した。

死後、霊王された。

参考文献

先代
東京鄭氏第12代当主
1782年 - 1786年
次代