辜寛敏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。花蝶風月雪月花警部 (会話 | 投稿記録) による 2015年2月23日 (月) 15:21個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Category:台湾出身の人物)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

辜寬敏
プロフィール
出生: 1926年10月15日
出身地: 大日本帝国の旗 大日本帝国 台湾
職業: 実業家・独立運動家
各種表記
繁体字 辜寬敏
簡体字 辜宽敏
拼音 Gū Kuānmĭn
和名表記: こ かんびん
発音転記: グー・クアンミン
テンプレートを表示

辜寬敏(グー・クアンミン、こ かんびん、1926年10月15日 - )は台湾の実業家、台湾独立運動家。中華民国総統府資政。異母兄は辜振甫(台湾の財界人、海峡交流基金会董事長)。 息子にリチャード・クーエコノミスト)。

1947年二二八事件が発生すると日本に逃れ、台湾独立建国聯盟を結成し、台湾独立運動団体である台湾青年会の委員長を務めたが、1972年に事実上の中華民国指導者であった蒋経国の求めに応じ帰国対談したことにより台湾独立建国聯盟日本本部により除名処分を下されている。また文化事業へも積極的に関与し、『台湾春秋』、『日本文摘』、『黒白新聞週刊』等の雑誌を経営、日本での台湾独立系雑誌である『台湾青年』にも出資している。

政治活動としては2000年4月に台湾独立建国聯盟の名義で『ワシントン・ポスト』に自費での意見広告を掲載し、台湾での政権交代が実現した後の台湾独立を主張、翌年11月には『ニューヨーク・タイムズ』に一つの中国政策への批判などを掲載している。2006年10月15日陳水扁など民主進歩党関係者による米寿祝宴の席上で誕生日プレゼントに正名、憲法制定、台湾政権の継続を要望し、また「第二共和憲法」の概念を発表するなど、台湾独立派としてなお活動している。

外部リンク