許惇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

許 惇(きょ とん、生年不詳 - 572年)は、中国東魏北斉官僚は季良。本貫高陽郡新城県

経歴[編集]

高陽章武二郡太守の許護の子として生まれた。司徒主簿に任じられて、有能で知られ、入鉄主簿と号された。しばらくを経て陽平郡太守に転じ、その統治は天下第一と賞賛された。魏尹斉州刺史[1]梁州刺史を歴任し、いずれも善政で知られた。後に入朝して大司農となった。侯景が叛き、王思政が潁川城に入ったため、高岳らが討伐に当たると、許惇は漕運を担当して、討伐軍への補給を絶やさなかった。洧水を引き入れて潁川城を水攻めにしたのは、許惇の進言によるものであった。殿中尚書に転じた。

許惇はヒゲが美しく、下は帯まで垂れていたので、省中では長鬣公と呼ばれていた。文宣帝が酒に酔い、許惇のヒゲを握ってその美をたたえ、刀でヒゲを切り落としたので、1握りをとどめるのみとなった。許惇は恐れて再びヒゲを伸ばすことはなく、このために当時の人はかれを斉鬚公と呼んだ。

武成帝が即位すると、御史中丞を兼ね、膠州刺史となった。まもなく司農卿となり、大理卿に転じ、再び度支尚書となった。太子少保・少師・光禄大夫開府儀同三司・尚書右僕射・特進を歴任し、万年県子の爵位を受け、下邳郡を食邑とした。

老齢のために致仕し、572年武平3年)に死去した[2]

子女[編集]

  • 許文紀(武平末年に度支郎中)
  • 許文経(武平末年に殿中侍御史となった。開皇初年に侍御史となり、通直散騎常侍を兼ね、使を接待した。相州長史として死去した)

脚注[編集]

  1. ^ 『北斉書』や『北史』の本伝のみならず、『梁書』巻56侯景伝にも「齊州刺史許季良」が見える。
  2. ^ 原文「三年卒」だが、張森楷の考証によると、『北斉書』巻8後主紀の武平三年八月己丑の条に「特進許季良為左僕射」と見えており、武平年間以後の隆化徳昌承光年間はいずれも短く、3年に届いていないため、この三年は武平3年のこととみなしている。

伝記資料[編集]