藤原有穂

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藤原有穂
時代 平安時代前期 - 中期
生誕 承和5年(838年
死没 延喜7年12月21日908年1月27日
官位 従三位中納言
氏族 藤原北家末茂
父母 父:藤原直道、母:藤原継雄の娘
兄弟 有穂連茂高階連高常依滋実連煎連松連永
正室:安部興武の娘
俊蔭俊代俊胤俊房俊方俊平俊連俊風俊保俊輔俊信俊保
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藤原 有穂(ふじわら の ありほ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿備前守・藤原直道の長男。

生涯

清和朝では六位蔵人として天皇に近侍する一方、春宮少進として皇太子・貞明親王にも仕えた。貞観19年(877年)貞明親王の即位陽成天皇)に伴い従五位下に叙せられる。陽成朝でも五位蔵人を務める傍らで、侍従次いで右衛門権佐を兼ね引き続き天皇の身近に仕えるものの、40歳代半ばにして依然として位階は従五位下に留まるなど、昇進ははかばかしくなかった。

しかし、元慶8年(884年)2月従兄弟にあたる光孝天皇の即位に伴い従五位上に叙せられると、同年11月には正五位上と続けて昇叙される。のち中弁左少将と文武の要職を兼ね、仁和2年(886年蔵人頭、翌仁和3年(887年従四位下に叙任されるなど急速に昇進を果たした。

同年8月光孝天皇の崩御に伴い蔵人頭を辞任するが、宇多朝に入っても昇進を続け、寛平4年(892年)従四位上、翌寛平5年(893年)には参議に叙任され公卿に列した。寛平7年(895年)備前守。議政官として長く中宮大夫を兼ね治部卿・民部卿も兼帯した。醍醐朝の延喜2年(902年従三位中納言に至り、延喜格式の編纂にも参画している。

延喜7年(908年)12月21日死去。享年71。最終官位は中納言従三位行民部卿兼春宮大夫。

官歴

  • 貞観5年(863年)2月10日:備前守
  • 貞観11年(869年)3月4日:主蔵正
  • 貞観12年(870年)正月25日:讃岐権掾
  • 貞観16年(874年):春宮少進(于時蔵人)
  • 貞観18年12月27日(877年1月15日):内蔵権助
  • 貞観19年(877年)正月3日:従五位下
  • 元慶元年(877年)4月19日:禁色 10月18日:侍従
  • 元慶2年(878年)10月15日:右衛門権佐
  • 元慶8年(884年)2月23日:従五位上 3月9日:備前権介 3月11日:禁色衣服 11月25日:正五位下
  • 元慶9年(885年)正月16日:左近衛少将(佐如元)
  • 仁和2年(886年)2月21日:右中弁(去権佐。余官如元) 8月:左中弁 蔵人頭
  • 仁和3年(887年)正月7日:従四位下 11日:中宮大夫 8月:止頭(天皇昇霞)
  • 寛平3年(891年)4月11日:右大弁
  • 寛平4年(892年)3月14日:従四位上
  • 寛平5年(893年)2月16日:参議(大夫如元。止右大弁)
  • 寛平6年(894年)正月15日:河内権守
  • 寛平7年(895年)正月11日:備前守
  • 寛平9年(897年)5月25日:治部卿 12月23日(898年1月19日):正四位下
  • 昌泰3年(900年)12月5日:備前権守
  • 延喜2年(902年)正月26日:従三位・中納言 2月23日:民部卿
  • 延喜6年(906年)9月17日:春宮大夫

系譜

参考文献