藤原御楯
藤原 御楯(ふじわら の みたて、生年不詳[1] - 天平宝字8年6月9日(764年7月12日))は奈良時代の貴族。初名は千尋。藤原北家の祖である参議・藤原房前の六男。官位は従三位・参議。
経歴
天平勝宝元年(749年)4月正六位上から従五位下に、同年7月の孝謙天皇の即位に伴い従五位上に昇叙される。同母兄の藤原永手や八束が藤原仲麻呂と対立したのに対し、妻が仲麻呂の娘、姉が仲麻呂の妻という親族関係から、千尋は仲麻呂の側近であったと推測され、天平勝宝9年(757年)仲麻呂が大炊王を皇太子に冊立し紫微内相に任ぜられて権力を握ると、千尋は同年5月に正五位下、8月正五位上と続けて昇叙される。
天平宝字2年(758年)大炊王の即位(淳仁天皇)に伴って、千尋から唐風名の「御楯」に改名し、従四位下に昇叙。天平宝字3年(759年)には従四位上・参議に叙任され、兄の永手・八束・清河に次いで房前の子息4人が同時に公卿に列した。その後も天平宝字5年(761年)には従三位にまで昇叙され、兄・真楯(八束)に昇進面で肩を並べるなど、仲麻呂政権の有力メンバーとして目覚ましい昇進を遂げた。また、御楯は授刀衛の長官(授刀督)であったことから、仲麻呂政権において特に軍事面を担っていた。しかしながら、天平宝字8年(764年)6月仲麻呂に先立って急死してしまい、そのことが同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱で仲麻呂が敗退する間接的な原因となったと考えられている。
官歴
- 天平勝宝元年(749年) 4月1日:従五位下(六国史への初出)、7月2日:従五位上
- 天平勝宝2年(750年) 5月14日:美濃守
- 天平勝宝9年(757年) 5月20日:正五位下、8月4日:正五位上
- 天平宝字2年(758年) 8月1日:従四位下(この時名を「御楯」と記される)
- 天平宝字3年(759年) 6月16日:従四位上・参議
- 天平宝字4年(760年) 6月7日:裝束司(光明皇太后崩御)、8月:正四位下[2]
- 天平宝字5年(761年) 正月16日:伊賀国・近江国・若狭国の按察使を兼任、8月12日:正四位上、10月28日:従三位
- 天平宝字8年(764年) 6月9日:死去
系譜
参考文献
- 「永手・眞楯(八束)・御楯(千尋)-八世紀中葉の藤原北家-」野村忠夫(『史聚』12号)