藤原家隆 (左京大夫)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2022年2月3日 (木) 06:34; Ayukiminami (会話 | 投稿記録) による版(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
 
藤原家隆
時代 平安時代後期
生誕 不詳
死没 天治2年11月11日1125年12月7日
官位 従四位上(または正四位下)、左京大夫
主君 堀河天皇
氏族 藤原北家御堂流
父母 父:藤原師通、母:平貞経の娘
兄弟 忠実家政家隆、斎院女別当、女子、令子内親王宣旨、覚英、栖霞院姫君
藤原盛実の娘
成隆定国昌隆、隆海、澄智、平忠盛妾、藤原忠章
テンプレートを表示

藤原 家隆(ふじわら の いえたか)は、平安時代後期の貴族藤原北家関白内大臣藤原師通の三男。官位従四位上(または正四位下)・左京大夫

経歴[編集]

摂関家の子弟として生まれながら、母の身分が低かったことに加え、早くに父を喪ったこともあって、公卿昇任は果たせずに終わっている。永長元年12月26日(1097年1月12日)に元服。異母兄の忠実に近侍したとされ、忠実と同じく土佐守藤原盛実の娘を室として、嫡子成隆を儲けている。また娘の一人(待賢門院女房)が平忠盛の側室となって、教盛を儲けたことでも知られている。

中外抄』下巻第32条には、忠実の孫である興福寺権別当覚継が出家の身にあることに不満を述べていることに対し、忠実の家司であった中原師元が「覚継は忠実の引き立てがあるから仏教界においても今日の地位を得ているのであり、たとえ俗界にあったとしてもその後ろ盾が無ければ、家隆の地位をも越えることができないであろう」と語ったとあり、摂関家子弟であったとしても必ずしも栄達できる訳ではないことの事例として引き合いに出されている。

系譜[編集]

江戸時代前期に美濃国高須藩主となった徳永寿昌を輩出した徳永氏は家隆の末裔を称している。