董承

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董承
後漢
車騎将軍
死去 建安5年(200年
拼音 Dong Cheng
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董 承(とう しょう、? - 建安5年(200年))は、中国後漢末期の武将。

素性は諸説があるが、一般的には献帝の祖母の董太后の親族(甥)[1]とされる。 しかし、後世の史家からはその親族関係は疑問であると指摘されている[2]。 娘は献帝の貴人(側室)。

正史の事跡

洛陽帰還行

董承は、元々は董卓の娘婿である牛輔部曲である[3]。董卓死後の長安における権力争いのなかで、具体的な事跡は不明だが、董承も身を置いていたと見られる。

興平2年(195年)7月、張済の仲介により、郭汜ら旧董卓配下の将軍たちの間で和解が成立して、献帝は洛陽へ帰還することになり、この時、董承は安集将軍に任命された。帰途の同年11月、車騎将軍となった郭汜が謀反して献帝を奪おうとし、後将軍楊定・興義将軍楊奉はこれを撃ち破った。郭汜は、後悔して献帝を奪い返そうとする李と合流する。

その後、献帝一行が華陰に至ると、同地を統治していた寧輯将軍段煨が一行を出迎え、段煨は献帝を自陣に迎え入れようとする。しかし、段煨と元々仲が悪かった楊定、その友人の侍中は反対し、董承も楊定に与して「郭汜の軍が段煨の兵営に入りました」と献帝に讒言したため、ついに一行は華陰を離れることになった。なお、段煨には、献帝を独占しようという野心は無かった。この後、段煨と交戦状態になった楊定は、追撃してきた李・郭にまで挟撃され、進退窮まって荊州へ逃げている[4]

その後、票騎将軍(驃騎将軍張済も、董承・楊奉と対立の末に叛逆して、李・郭軍に加わる。董承・楊奉らは、李・郭・張連合軍と東澗で戦ったが敗北した。それでも曹陽澗まで至ったところで、董承は楊奉と共に、白波帥の胡才李楽韓暹、さらには南匈奴の左賢王去卑に呼びかけ、これらを援軍として得て李・郭・張軍を破る。

しかしその翌月、執拗に追撃してきた李・郭・張軍に、董承・楊奉らはまたしても敗れた。水路を使って逃げる途中、多くの官人たちが船にすがり付いてきたが、董承は矛でこれを撃ち払い、官人たちの切られた手指が船中に転がった。献帝一行はわずか数十人となってしまったが、先行していた李楽や河内太守張楊、河東太守王邑らの救援のおかげで、何とか安邑まで逃れた。

政争の果ての最期

建安元年(196年)1月、献帝を迎え入れようとした兗州牧曹操が、従弟の曹洪に兵を与えて派遣してきた。衛将軍[5]董承は、袁術の将萇奴と共に要害を守備し、曹洪の進軍を阻んだ[6]。その翌月、献帝一行に付き従っていた将軍たちの間で争いが発生し、韓暹が董承を攻撃した。董承は張楊を頼って逃れ、その張楊の指示により、董承は洛陽へ先行して向かい宮殿を修繕した。

同年7月、献帝はついに洛陽に到着し、董承は韓暹と共に宿衛の任に就いた。しかし、韓暹の専横を恐れた董承は、密かに曹操を召し寄せ、その威を借りて韓暹・楊奉・張楊らを追い落とすことに成功している。同年8月、董承は列侯に封じられた。建安4年(199年)3月、董承は車騎将軍に任命され、府を開いた。

董承は、次第に権力を強大化させる曹操を恐れ、同志(王子服、呉碩、呉子蘭[7]輯、劉備など)を集めてクーデターを起こそうとした。しかし建安5年(200年)正月、計画は事前に発覚し、董承一族やその一派は捕らえられて処刑された。彼の娘の董貴人も妊娠中だったが、それでも曹操は彼女を殺した。

物語中の董承

小説『三国志演義』では医師の吉平とのやり取りと、召使との争いから計画が外部に洩れるという筋書きが追加されている。また、事件から20年以上後に、病床の床に伏した曹操を、亡霊となった董承らが枕元に立ち苦しめたという逸話が脚色されている。

なお、董承の忠臣としての性格を強調付けられるためか、董承の出身母体や洛陽帰還時の政争等について、『演義』では欠落している部分が多い。特に、すがり付く官人たちの手指を切り払って脱出した史実のくだりに至っては、『演義』では李楽の仕業に置き換えられている。

脚注

  1. ^ 三国志蜀書2先主伝の裴松之注は「董承は霊帝の生母の董太后の(「てつ」、甥のこと)である」とする見解を示している。
  2. ^ 盧弼三国志集解』巻32蜀書8を参照。また、『三国志』魏書6付・李郭汜伝の注に引く『献帝起居注』では、皇甫酈が「(董卓は)外に董旻、董承、董璜があり鯁毒(ちくま学芸文庫版は、「軍隊の統率者」の意に訳している)としていた」と述べている箇所があり、董旻、董璜がそれぞれ董卓の弟、甥であることを考えると、あたかも董承も董卓の親族であるかのようにされている。ただし、皇甫酈の言う董承については、本記事の董承とは同姓同名の別人の可能性もある。
  3. ^ 後漢書』列伝62董卓伝に「(董卓の女婿の)牛輔の部曲(武将)である」と記されている。
  4. ^ 『後漢書』董卓伝本伝、同伝注袁宏『後漢紀』。
  5. ^ 正確な任命時期は不明。
  6. ^ 『三国志』魏書1武帝紀。
  7. ^ 子蘭は字であると思われるが、このクーデターの時にしか名が見られず、どういう人物だったのかという略歴も現在のところは不詳である。

参考文献