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范成大

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范成大(はん せいだい、1126年 - 1193年)は中国・南宋の政治家、詩人。字は致能、石湖居士と号した。南宋四大家の一人。

略伝

呉都(江蘇省蘇州)の出身。1154年進士に及第し、戸曹監和済局の官を振り出しに著作佐郎をへて吏部郎官となったが一時退官する。知処州に返り咲いた時に税法の弊害を除くために義役の法を改めたことで認められ、礼部員外郎に崇政殿学士を兼ねた。中央にあっては、刑法・盬法・馬政を改良し饑民を救済する。へ赴任したさいは西南の吐蕃を防ぐため、城柵を増築し兵数千を増加し敵を離間するなど、軍政上も功績を残した。國信使として金国に出たときは、金の朝廷の威嚇に屈せず宋朝の威信を保ち臣節を全うして帰国する。中書舎人となり、広西へ経略按撫使兼副知静江府として出て、中央にもどって敷文閣侍制となるが、すぐに四川の制置使とされる。中央にもどり権吏部尚書となり参知政事となったが、まもなく二度目の隠退をする。そして明州の知を命じられ、端明殿学士をへて一時は金陵(南京)に駐留し、資政殿学士となったが病気を理由に故郷に退き、そこで没する。崇国公に追封され、文穆と諡された。

范成大は人物鑑識に明察があり、有能な者を抜擢してことごとく幕下におき、小さな欠点にこだわらず長所を大いに用いたので、彼の配下からは二府の大臣に至った者が輩出したという。

著作と詩

范成大の著書は多く、『石湖集』は136巻に及んだ。その中から『石湖詩集』34巻、紀行文に『攬轡録』(らんぴろく)『驂鸞録』(さんらんろく)『呉船録』など(邦訳は小川環樹ほか訳注で、平凡社東洋文庫より刊行)、『桂海虞衡志』、『呉郡志』50巻などの地誌、『范村菊譜』、『范村梅譜』などが伝わっている。

詩人としては、『四庫提要』で蘇軾黄庭堅の遺法を嗣いだことが指摘され、『石湖集』序文では楊万里により『清新嫵麗』と評される。