范成大

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范 成大(はん せいだい、靖康元年6月4日1126年6月26日)- 紹熙4年9月5日1193年10月1日))は、中国南宋の政治家・詩人。字は至能、石湖居士と号した。尤袤楊万里陸游とともに南宋四大家の一人。

略歴[編集]

蘇州呉県の出身。紹興24年(1154年)に進士に及第し、戸曹監和済局の官を振り出しに、著作佐郎をへて吏部郎官となったが、一時退官する。処州知州に返り咲いた時、税法の弊害を除くために義役の法を改めたことで認められ、礼部員外郎に崇政殿学士を兼ねた。中央にあっては、刑法・塩法・馬政を改良し、饑民を救済する。成都府知府へ赴任した際は西南の吐蕃を防ぐため、城柵を増築、兵数千を増加し、敵を離間するなど、軍政上も功績を残した。国信使としてに出たときは、金の朝廷の威嚇に屈せず宋朝の威信を保ち、臣節を全うして帰国する。中書舎人となり、広西経略安撫使・静江府知府として出て、中央にもどって敷文閣待制となるが、すぐに四川制置使とされる。中央にもどり権吏部尚書となり、参知政事となったが、まもなく2度目の隠退をする。そして明州知州を命じられ、端明殿学士をへて、一時は建康府に駐留し、資政殿学士となったが病気を理由に故郷に退き、そこで没する。崇国公に追封され、文穆とされた。

范成大は人物鑑識に明察があり、有能な者を抜擢してことごとく幕下におき、小さな欠点にこだわらず長所を大いに用いたので、配下からは二府の大臣に至った者が輩出したという。

著作と詩[編集]

范成大の著書は多く、『石湖集』は136巻に及んだ。その中から『石湖詩集』34巻、紀行文に『攬轡録』(らんぴろく)・『驂鸞録』(さんらんろく)・『呉船録』など(邦訳は小川環樹ほか訳注で、平凡社東洋文庫より刊行)・『桂海虞衡志』・『呉郡志』50巻などの地誌、『范村菊譜』・『范村梅譜』などが伝わっている。

詩人としては、『四庫提要』で蘇軾黄庭堅の遺法を嗣いだことが指摘され、『石湖集』序文では楊万里により『清新嫵麗』と評される。