耿臨

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耿 臨(こう りん、生没年不詳)は、後漢玄菟太守[1]

人物

後漢の光武帝建武8年(32年)、高句麗大武神王は、使者を派遣して後漢に朝貢し、その時、はじめて王と称した。殤帝安帝の時代(105年から125年)になると、高句麗の太祖大王は、たびたび遼東に侵攻したため、後漢はあらためて高句麗を玄菟郡に属させた[1]。遼東太守の蔡風と玄菟太守の姚光は、太祖大王が遼東と玄菟の二郡に対して害をなすため、軍隊を派遣して討伐しようとした。しかし太祖大王は偽って降伏し、和議を要請したため、二郡は進軍しなかった[1]。それに対して太祖大王は、軍を派遣して玄菟を攻撃させ、候城を焼き、遼隧(現在の遼寧省鞍山市海城市)に侵入し、役人や民を殺し、遼東を侵犯した[1]。蔡風は、役人や兵士を率いて追討したが、敗れた。太祖大王が死んで、新大王が即位すると、新大王は、順帝桓帝の時代に、ふたたび遼東を侵犯し、新安居郷に侵入し、西安平県を攻め、道上で帯方県令を殺し、楽浪太守の妻子をさらった。霊帝建寧2年(169年)、玄菟太守の耿臨は新大王を討伐し、数百人を斬首したり捕虜にした。その後、新大王は降伏して、遼東に属した[1]

脚注

  1. ^ a b c d e 田中俊明『『魏志』東夷伝訳註初稿(1)』国立歴史民俗博物館〈国立歴史民俗博物館研究報告 151〉、2009年3月31日、385頁。