耶律乞奴

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耶律 乞奴(やりつ きつぬ、Yelü Qinu、? - 1216年)は、末に活躍した契丹人。後遼政権の君主の一人。

概要[編集]

1213年3月、契丹人の耶律留哥モンゴル帝国の侵攻によって金朝の支配が緩むと遼東で自立して「遼(東遼)」を建国した。しかし、東遼政権の内部では皇帝号を称するべきであるとする耶律廝不とモンゴル帝国を宗主として尊重すべきとする耶律留哥の意見が対立し、やがて耶律留哥は密かにチンギス・カンの下を訪れて改めて忠誠を誓った。耶律留哥はチンギス・カンの下から耶律乞奴ら使者を派遣して反対派閥を従わせようとしたが、不利を悟った耶律廝不らは耶律乞奴らを味方に引き入れて東遼政権から自立し、独自に「遼」の皇帝を称した[1][2]。この政権は耶律留哥の遼(東遼)などと区別するために、一般に「後遼」と呼ばれる。

耶律乞奴は耶律金山・耶律青狗・耶律統古与らとともに耶律廝不の即位を手助けした中心人物として厚遇され、丞相に任ぜられた[3]。ところが、在位数カ月にして耶律青狗が裏切って金に降り、耶律廝不は耶律青狗によって殺されてしまった。そこで、丞相の地位にあった耶律乞奴が監国として国政を預かり、元帥の鵝児とともに兵民を左翼・右翼に分けて高麗との国境に近い開州中国語版(現在の鳳城市)・保州中国語版(現在の義州郡)に駐屯した[4][5]

これに対し、金朝は蓋州の守将の衆家奴を派遣して後遼政権を攻撃し、また耶律留哥もモンゴル兵数千を借りて後遼軍を破った[6]。挟み撃ちにあった後遼政権は二手に分かれ、鵝児は東に逃れて遼朝の旧首都臨潢府に移り、耶律乞奴は高麗国に逃れたもののそこで耶律金山に殺害された[7]。耶律乞奴らの高麗侵攻は高麗側にも記録されており、モンゴル軍の討伐を受け、更に金朝軍の攻撃を受けた「契丹人の王子」耶律金山が高麗に兵糧の補給を要求し、これに高麗側が応えなかったために鵝児・耶律乞奴が高麗領に侵攻したとされる[8]。『高麗史』「高宗世家」によると耶律乞奴ら契丹兵(=後遼軍)が高麗に侵攻したのは1216年8月14日のことであり[9]、耶律乞奴が殺されたのもこの頃であったとみられる[10]

耶律乞奴の死後、耶律乞奴を殺した耶律金山が国王を称して後遼を取りまとめた。

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「留哥遣大夫乞奴・安撫禿哥与倶、且命詰可特哥曰『爾妻万奴之妻、悖法尤甚。其拘縶以来』。可特哥懼、与耶廝不等紿其衆曰『留哥已死』。遂以其衆叛、殺所遣三百人、惟三人逃帰。事聞、帝諭留哥曰『爾毋以失衆為憂、朕倍此数封汝無吝也。草青馬肥、資爾甲兵、往取家孥』」
  2. ^ 池内1943,568-569頁
  3. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「丙子、乞奴・金山・青狗・統古与等推耶廝不僭帝号於澄州、国号遼、改元天威、以留哥兄独剌為平章、置百官」
  4. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「方閲月、其元帥青狗叛帰于金、耶廝不為其下所殺、推其丞相乞奴監国、与其行元帥鵝児、分兵民為左右翼、屯開・保州関」
  5. ^ 池内1943,569頁
  6. ^ 『金史』巻14宣宗本紀上に「[貞祐四年三月]丙子、曲赦遼東路」とあるのは、この時の戦いで金朝が遼東路を回復したことを反映していると考えられる(池内1943,569-570頁)。
  7. ^ 『元史』巻149列伝36耶律留哥伝,「乞奴走高麗、為金山所殺、金山又自称国王、改元天徳。統古与復殺金山而自立、喊舎又殺之、亦自立」
  8. ^ 『高麗史』巻103列伝16金就礪伝,「金就礪、彦陽人。……高宗三年、契丹遺種金山王子・金始王子、脅河朔民、自称大遼収国王、建元天成。蒙古大挙伐之、二王子席巻而東、与金兵三万、戦于開州館。金兵不克、退守大夫営、二王子進攻之、遣人告北界兵馬使云『爾不送粮助我、我必侵奪汝疆。我於後日樹黄旗、汝来聴皇帝詔。若不来、将加兵于汝』。至其日、果樹黄旗、兵馬使不往。明日、使其将鵝児・乞奴、引兵数万、渡鴨緑江、攻寧朔等鎮、掠城外財穀畜産而去」
  9. ^ 『高麗史』巻22高宗世家一,「[高宗三年八月]乙丑、契丹遺種金山・金始二王子、遣其将鵝児・乞奴二人、引兵数万、渡鴨緑江、侵寧朔・定戎之境」
  10. ^ 池内1943,573頁

参考文献[編集]

  • 元史』巻149列伝36耶律留哥伝
  • 池内宏「金末の満洲」『満鮮史研究 中世第一冊』荻原星文館、1943年
  • 蓮見節「『集史』左翼軍の構成と木華黎左翼軍の編制問題」『中央大学アジア史研究』第12号、1988年
  • ドーソン著、佐口透訳『モンゴル帝国史平凡社 / 東洋文庫