羽地朝秀
羽地 朝秀(はねじ ちょうしゅう、万暦45年5月4日(1617年6月6日) - 康熙4年11月20日(1676年1月5日))は、尚質王、尚貞王の摂政を務めた琉球王国の政治家。初位は按司、後に王子位に昇った。摂政の任期は1666年 - 1673年。
生涯
羽地朝秀は、1617年、琉球王族の羽地御殿(ウドゥン)に生まれた。唐名は向象賢(しょう・しょうけん)。ただしこの唐名は、羽地の死後に付けられたものであり、生存中の唐名は呉象賢である[1]。また名乗りは重家であった。王家分家の氏が「向」、名乗り頭が「朝」に統一されるようになったのは、1691年以降である。それゆえ、生存中の本来の名は、呉象賢・羽地按司重家である。
1640年、羽地は羽地御殿の家督を継いで、羽地間切の按司地頭となった。若くして薩摩(現鹿児島県)に留学し、数々の学問を修める。
1650年、羽地は王命により『中山世鑑』の編纂を行い、琉球王国最初の歴史書を完成させた。1666年、尚質王の摂政となり、数々の改革を断行。薩摩藩による琉球侵攻以来、疲弊していた国を立て直すのに成功した。1673年に摂政の地位を退き、1675年に死去した。のちに、琉球の五偉人に数えられるほど評価が高く、彼の葬儀には尚貞王も臨席する国葬級の葬儀であったという。
信条・政策
羽地朝秀の政策は財政再建、政教分離を志した改革策であった。まず政治と結びついて多額の出資の元となっていた土着の琉球神道を問題視して、聞得大君(きこえおおきみ)位の格下げ、東御回り(あがりうまーい)への王参拝の禁止、諸祭事を縮小させるなどの改革を行った。ただし必ずしも徹底したものではなく、行政や社会維持に差し障りのない範囲での存続は認めた。
羽地朝秀の信条は日琉同祖論で「日本は即ち本であり、本にそむくものは禍に遭う」との立場から琉球独自の風習には批判的だった。この立場は編纂した『中山世鑑』に反映されている。この信条は薩摩留学の頃に得たと見られ、薩摩藩は迎合主義として歓迎した。また羽地朝秀は、摂政就任後の1673年3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、王家の祖先だけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている[2][3]。
羽地朝秀は宗教に一定の打撃は与えたものの、財政再建策は成功を収め王室に寄与することとなった。
家族表
脚注
- ^ 『沖縄県姓氏家系大辞典』23頁参照。
- ^ 真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「「此国人生初は、日本より為レ渡儀疑無二御座一候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖レ然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為レ絶故也」。
- ^ なお、最近の遺伝子の研究で沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。考古学などの研究も含めて南西諸島の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている