紀淑雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Fukupow (会話 | 投稿記録) による 2020年8月9日 (日) 12:38個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎来歴・人物)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

紀 淑雄(きの としお、1872年明治5年)4月22日 - 1936年昭和11年)4月15日)は、日本の美術学者、美術評論家早稲田大学講師・教授、本願寺文学寮講師、女子美術学校講師、日本美術学校校長。号は星峰星峯)。

来歴・人物

1872年(明治5年)4月22日東京市本所区に生まれる[1][2]

東京専門学校普通科(1888年9月入学、1890年7年卒業)、東京専門学校文学科(1890年9月入学、1893年7月卒業)を経て、1893年(明治26年)9月から本願寺文学寮講師となり、国文学英文学を担当する[1]1896年(明治29年)4月から早稲田尋常中学校教員[3]、同年9月から東京専門学校講師となる[4]

1897年(明治30年)12月27日帝国博物館より帝国美術歴史編纂掛を嘱託される[3]1899年(明治32年)6月10日、帝国博物館美術臨時監査係を嘱託される[5]

1900年(明治33年)3月から女子美術学校講師を嘱託され、日本美術史・美術汎論を担当する[6]。同年から1907年(明治40年)まで美術雑誌『国華』の解説起草主任を嘱託される[5]

1901年(明治34年)4月16日、帝国博物館より帝国美術史草稿編纂委員を嘱託され、『稿本日本帝国美術略史』の執筆に当たる[7][8]

1902年(明治35年)5月に第1回絵画展覧会に招待されたことを契機として、日本画家団体「美術研精会」に参加する[8]1904年(明治37年)7月6日の臨時総会により主幹の座を退くこととなる[9]

1905年(明治38年)、山内多門高野涼堂らと日本画家団体「国香会」を結成する[8]。1906年(明治39年)6月24日、国香会女子部発会式を行う[10]

1906年(明治39年)9月、早稲田大学大学部文学科講師となり、美学・美術史を担当する[3]1911年(明治44年)、教授となる[3][11]

1917年(大正6年)4月、「美術研究所」を創立し、所長となる[3][12]1918年(大正7年)4月、「美術研究所」を「日本美術学校」と改称し、校長となる[11]

1936年(昭和11年)4月15日、逝去、享年63歳[13][14][15]

1938年(昭和13年)4月29日、日本美術学校にて胸像除幕式が行われる[13]

著書

  • 『小山田与清』裳華書房〈偉人史叢 第18巻〉、1897年10月。NDLJP:781611 
  • 『日本画の鑑賞』日本放送協会関東支部〈家庭大学講座テキスト(美術鑑賞 其3)〉、1930年4月。NDLJP:1121090 

脚注

  1. ^ a b 沓沢 2004, p. 57.
  2. ^ 西 2012, p. 148.
  3. ^ a b c d e 坂崎 1936, p. 63.
  4. ^ 沓沢 2004, pp. 57–58.
  5. ^ a b 沓沢 2004, p. 59.
  6. ^ 沓沢 2004, p. 69.
  7. ^ 沓沢 2004, p. 58.
  8. ^ a b c 西 2012, p. 149.
  9. ^ 沓沢 2004, pp. 59–60.
  10. ^ 沓沢 2004, p. 61.
  11. ^ a b 沓沢 2004, p. 70.
  12. ^ 沓沢 2004, p. 65.
  13. ^ a b 沓沢 2004, p. 66.
  14. ^ 「紀淑雄氏」『朝日新聞』、1936年4月16日、11面。
  15. ^ 「訃報」『早稲田学報』第495号、早稲田大学校友会、1936年5月10日、77-78頁。 

参考文献

  • 坂崎坦「紀先生を憶ふ」『早稲田学報』第495号、早稲田大学校友会、1936年5月10日、61-63頁。 
  • 沓沢耕介「紀淑雄の美術家養成活動」『早稲田大学會津八一記念博物館 研究紀要』第5号、早稲田大学會津八一記念博物館、2004年3月25日、57-70頁、NAID 40007325376 
  • 西恭子「日本美術学校について ~公文書にみられる学校運営 : 大正7年から昭和16年~」『東洋大学人間科学総合研究所紀要』第14号、東洋大学人間科学総合研究所、2012年3月、147-158頁、NAID 40019259639 

外部リンク