竹田定矩

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竹田 定矩(たけだ さだのり、1769年明和6年)- 1799年寛政11年7月22日))は江戸時代儒学者、教育者。福岡藩の藩儒竹田家の第5代当主。藩校修猷館(東学問稽古所)第2代総受持(館長、「教授」とも称される)[1]は復斎。(あざな)は子恕。通称は平之丞[2]

経歴

福岡藩の藩校である修猷館の、初代総受持を務めた竹田定良(梅廬)の長男として生まれる[2]

長崎、京都で西依成斎若槻幾斎らに学ぶ。帰藩して、定良の後を継ぎ、1796年(寛政8年)に修猷館の総受持となり、黒田家の家譜編纂にも携わった[2]

病気を患い、1799年(寛政11年)から、嶋村遜井上周徳奥山弘道の3名が、輪番で総受持の職を代行することになり、同年に定矩が死去後も、弟である竹田定夫が総受持に就任する1807年文化4年)まで、その3名で代行している(翌年に井上周徳、翌々年に奥山弘道が死去したため、その後は嶋村遜のみが代行)[3]

脚注

  1. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)歴代総受持・館長15頁
  2. ^ a b c 『日本人名大辞典』 1140頁(「竹田復斎」として記載)(講談社、2001年)
  3. ^ 『修猷館二百年史』 44頁、修猷館二百年記念事業委員会、1985年