立花家千橘

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立花家 千橘(たちばなや せんきつ)は、音曲落語名跡。当代は4代目。

「立花家」の亭号は、もともと色物の音曲師などのものであるが、後には落語家も名乗るようになった。ちなみに「千橘」の名は三遊亭にもあり、最初に名乗ったのは2代目三遊亭萬橘

なお、1918年睦会名簿にも「立花家千橘」の名が見え、本名は小林利一郎というが、その他の詳細は不明。この時期、大阪には中村常次郎の千橘がいたため、二人の千橘が同時にいたことになる。

初代[編集]

昔々亭せきせきてい 桃太郎ももたろう
初代三遊亭さんゆうてい 千橘せんきつ
本名 木村 兼次郎
生年月日 1857年8月9日
没年月日 (1942-05-20) 1942年5月20日(84歳没)
出身地 現在の日本の旗 日本神奈川県横浜市
師匠 2代目三遊亭圓橘
弟子 2代目立花家千橘
名跡 1.三遊亭千橘
2.昔々亭桃太郎
家族 春風亭小柳三(甥)
所属 三遊派(1907年 - 1912年)

2代目[編集]

2代目 立花家たちばなや 千橘せんきつ
本名 中村 常次郎
生年月日 1873年
没年月日 1922年4月14日
出身地 日本の旗 日本
師匠 初代三遊亭千橘
名跡 1. 2代目立花家千橘(? - 1922年)
活動期間 ? - 1922年
所属 三遊派
互楽派
藤明派
圓頂派
反対派
主な作品
安来節の電気入り「どじょうすくい」

1873年 - 1922年4月14日)は、音曲師

東京の初代千橘門下。1897年、上方に本拠を移す、まもなく互楽派藤明派に参加その後桂派に迎え入れられた。この頃は音曲で売り物にした。

明治末に初代橘ノ圓圓頂派に参加した、大正時代に入り反対派に参加し安来節の電気入り「どじょうすくい」売り物にした。この踊りは変り目ごとに懐から懐中電灯を取り出しピカリとつけるとぼけた趣向で客は失笑し脚光を浴びた。

1922年に没し反対派のみなで社葬行われた。辞世の句は「濁る世の鰌を掬ひし我なれば今は仏のすくひ待つのみ」。

本名は中村常次郎。享年50。

墓所は大阪府大阪市天王寺区上本町9丁目の壽法寺(別名・紅葉寺)。

3代目[編集]

3代目 立花家たちばなや 千橘せんきつ
本名 坂本 梅之助
生年月日 1892年
没年月日 1945年3月28日
出身地 日本の旗 日本
師匠 2代目桂三木助
立花家橘之助
名跡 1. 4代目桂小半(時期不明)
2. 3代目立花家千橘(? - 1945年)
活動期間 ? - 1945年
活動内容 新作落語
百面相
手踊り
声色
芝居
所属 互楽派
反対派
花月

1892年 - 1945年3月28日6月28日という説もある。))は、上方噺家

茶番師(師)の2代目信濃家小半の実子で初代小半の甥に当たる。裕福な家庭だったという。初め2代目桂三木助門下で父と同じ名の4代目桂小半を名乗る。初代林家染五郎と組んで軽口をやっていた。父の没後三木助にみっちり指導を受けた。1924年5月、立花家橘之助門下に移り、大正の末に3代目千橘を襲名。小半時代から進取性に富み、古典落語に改良を加えたり、新作を手がけたりもした、他にも百面相や手踊り、声色、芝居もこなすなど多芸だった。美男子で踊りも得意であったことから、女性に人気があった。また吉花菱連の一派にも在籍していたこともある。戦時中の数年間は引退したが1944年頃復帰したが翌年の終戦直前に没した。本名は坂本梅之助。享年52。

SPレコードは『無い物買い』『住吉駕籠』『八百屋お七』『三枚起請』など古典新作あわせて20数種残されている。

戦後も同じ上方で活躍した2代目立花家花橘は兄弟弟子。

4代目[編集]

4代目立花家千橘 - 上方噺家2代目露の五郎兵衛門下で、桂団丸、露の団丸を経て、4代目千橘を襲名。

出典[編集]

  • 『落語系圖』(月亭春松編)
  • 『古今落語系図一覧表(文之助系図)』(日本芸術文化振興会、2004年)
  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
  • 『古今東西噺家紳士録』