種田孝一

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種田孝一
名前
カタカナ おいた こういち
ラテン文字 OITA Koichi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 1910年[1]
出身地 日本の旗 東京府
身長 174cm[1]
選手情報
ポジション MFDF
代表歴
1936 日本の旗 日本 2 (0)
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

種田 孝一(おいた こういち、1910年4月9日 - )は日本出身の元サッカー選手。ポジションはハーフバック、フルバック。日本代表として、1936年のベルリンオリンピックに出場した。

本来のポジションはハーフバック(現在の守備的MFに相当)だが、1936年のベルリンオリンピックでは、ドイツ到着後に現地指導者から指導を受けた日本代表が従来の2-3-5システムから近代的な3-2-5システムに変更したため、長身で守備的な種田が3バックの中央のフルバック(現在のスイーパーに相当)にコンバートされた。本大会では右FBの堀江忠男、左FB竹内悌三とバックラインを形成し、スウェーデンを破る大物食いを演じた(詳細はベルリンの奇跡を参照)。

引退後は指導者の道へ進み、1947年から1956年まで住友金属工業蹴球団(現鹿島アントラーズ)の監督を務めた。 その後ダイキン工業取締役会長も務めた。

所属クラブ

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 2試合 0得点(1936)


日本代表国際Aマッチ その他期間通算
出場得点 出場得点出場得点
1936 2 0 4 0 6 0
1937 0 0 0 0 0 0
1938 0 0 1 0 1 0
通算 2 0 5 0 7 0

参考文献

  1. ^ a b 『歴代日本代表パーフェクト名鑑 サッカーマガジン別冊夏季号』ベースボールマガジン社、2007年。