石田収蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。61.11.205.112 (会話) による 2022年3月17日 (木) 05:49個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

石田 収蔵(いしだ しゅうぞう、1879年3月6日 - 1940年1月31日[1])は、日本の人類学者樺太(サハリン)のアイヌウィルタニヴフなど北方諸民族の先駆的研究者。東京農業大学教授。

秋田県鹿角郡柴平村柴内(現在の鹿角市花輪)に生まれ、のち青森県八戸へ移る。1901年、東京帝国大学理科大学動物学科入学、1905年7月卒業[2]。東京帝国大学大学院進学。この頃、東京人類学会に入会し、以後、同会の幹事、編集員、編集主任、評議員・庶務幹事、発行兼編集者を務める。1907年から1939年までに5次にわたり樺太において民族調査を行った。

1920年から現在の板橋区徳丸に住み、周辺の遺跡調査もおこなう。

石田家に伝わった石田収蔵関係資料は、板橋区立郷土資料館が所蔵している。

参考文献

  • 板橋区立郷土資料館; 小西雅徳 編『特別展 石田収蔵-謎の人類学者の生涯と板橋』板橋区立郷土資料館、2001年。 

脚注