町尻量基
町尻 量基(まちじり かずもと、明治21年(1888年)3月30日 - 昭和20年(1945年)12月10日)は、日本の陸軍軍人、華族。印度支那駐屯軍司令官、化兵監、第6師団長、陸軍省軍務局長などを歴任した。陸軍中将勲一等功三級。
経歴
伯爵壬生基修の4男で、もと壬生基綱。のちに子爵町尻量弘の養嗣子となる。1914年1月31日、基綱を「量基」に改名[1]。妻は賀陽宮邦憲王の第一王女由紀子女王。陸軍士官学校(21期)、陸軍大学校(29期)を優等の成績で卒業する。
陸軍士官候補生第21期の同期には、石原莞爾陸軍中将や飯村穣中将、百武晴吉中将らがいる。1930年(昭和5年)5月20日から侍従武官を務め、1932年(昭和7年)8月8日、陸軍大佐に進級。1935年(昭和10年)3月15日から近衛野砲連隊長に就任、1936年(昭和11年)3月28日には陸軍省軍務局軍事課長、1937年(昭和12年)3月1日に陸軍少将進級と共に再び侍従武官に補される。
1937年(昭和12年)10月5日から陸軍省軍務局長を務め、1938年(昭和13年)4月14日北支那方面軍参謀副長に転ずる。同年6月10日第2軍参謀長として武漢作戦に参加する。同年11月1日から再び軍務局長に就任するが、実は先の第2軍参謀長の時に作戦文書を紛失していた為、同年12月29日から停職一箇月の処分を受ける。
処分後、軍務局長に復帰し1939年(昭和14年)1月31日から調査部長を兼ねる。同年8月1日に陸軍中将に進級し同10月2日参謀本部附、同12月1日から第6師団長に親補される。1940年(昭和15年)4月29日勲一等旭日大綬章受章。1941年(昭和16年)4月10日教育総監隷下の化兵監に就任、1942年(昭和17年)11月10日印度支那駐屯軍司令官に進む。1944年(昭和19年)11月22日の参謀本部附を経て1945年(昭和20年)5月24日予備役編入。同年12月10日薨去。
親族
- 実父: 壬生基修 - 伯爵・東京府知事・元老院議官・初代平安神宮宮司
- 実兄: 壬生基義 - 伯爵・陸軍少将・侍従武官・東宮武官
- 養父: 町尻量弘 - 子爵
- 妻: 町尻由紀子 - 賀陽宮邦憲王の第一王女・女王
脚注
参考文献
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。