王建 (前蜀)
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高祖 王建 | |
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前蜀 | |
初皇帝 | |
王朝 | 前蜀 |
在位期間 | 907年 - 918年 |
姓・諱 | 王建 |
諡号 | 神武聖文孝徳明恵皇帝 |
廟号 | 高祖 |
生年 | 847年 |
没年 | 918年 |
父 |
王金(実父) 田令孜(仮父) |
年号 |
天復 : 907年 武成 : 908年 - 910年 永平 : 911年 - 915年 通正 : 916年 天漢 : 917年 光天 : 918年 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/26/WangJian%27s-Tomb.jpg/220px-WangJian%27s-Tomb.jpg)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c5/WangJian%27s-Tomb-b.jpg/220px-WangJian%27s-Tomb-b.jpg)
王建(おうけん)は十国・前蜀の初代皇帝。847年生まれ。918年没。
出生
許州の舞陽(現在の河南省)に生まれる。若い頃は屠殺や塩の密売に関わる無頼の徒であり、その地方では賊王八と称されていた。
黄巣の乱が発生すると唐朝の鎮圧軍に参加し軍功を上げた。その後、唐の実力派宦官である田令孜の仮子(養子)となり、僖宗が蜀(現在の四川省)に脱出する際の功績により神策軍使、西川節度使、壁州節度使などを歴任した。
王建は在地勢力の歓心を買い、自からの陣営に取り込むことで勢力を拡大し、888年には永平節度使に、891年には田令孜を殺害して成都を制圧、更には剣南西川藩鎮を滅亡させ、西川を根拠地に定め、四川全域をほぼ掌握した。
901年に鳳翔の李茂貞(岐王)より漢中を奪い、902年には山南西道を手に入れ、903年には蜀王としての地位が与えられるに至った。
即位
更に907年に後梁に唐が滅ぼされると、後梁の支配を嫌い、皇帝を自称して元号を天復と改め、国号を大蜀と定めた。後世の史家は前蜀と呼びならわしている。
天然の要害である地理条件と、塩や鉄といった重要資源を豊富に産出する経済条件を利用し、在位期間中は国内の安定に力を注いだ。農業振興と水利事業を推し進め、与民休息の政策を実現した。また、多くの文人が平和を求めて前蜀に移動し、王建は彼らを保護する文化振興政策も実行している。しかしその反面、国内への監視に注意を払い、尋事団と呼ばれる秘密警察を作り、不満分子を圧殺した一面も有している。
子女
親子
養子
- 王宗弼 (鉅鹿王・中書令、本名は魏弘夫)
- 王宗侃 (樂安王・中書令、本名は田師侃)
- 王宗浩 (興州刺史)
- 王宗賀 (興元留後)
- 王宗綰 (臨洮王・中書令、本名は李綰)
- 王宗裔 (瑯琊王)
- 王宗翰 (集王、本姓は孟氏)
- 王宗夔 (瑯琊王)
- 王宗播 (臨潁王‧中書令、本名は許存)
- 王宗黯 (瑯琊王‧本名は吉諫)
- 王宗阮 (決勝兵馬都知使‧本名は文武堅)
- 王宗昱 (天雄節度使)
- 王宗本 (本名は謝従本)
- 王宗渥 (親従都指揮使‧本名は鄭渥)
- 王宗滌 (山南西道節度使‧同平章事、本名は華洪)
- 王宗瑤 (臨淄王‧中書令、本名は姜郅)
- 王宗佶 (中書令、本姓は甘氏)
- 王宗勉 (本名は趙章)
- 王宗祐 (彭州刺史)
- 王宗謹 (本名は王釗)
- 王宗訓 (武泰節度使、本名は王茂権)
- 王宗矩 (本名は侯矩)
- 王宗勳
- 王宗朗 (雄武節度使、本名は全師朗)
- 王宗威 (山南節度使)
- 王宗儔 (山南節度使・中書令)
- 王宗儼 (甲申指揮使)
- 王宗魯 (武興節度使)
- 王宗鐸 (興州刺史)
- 王宗宏
- 王宗範
- 王宗晏 (永寧節度使)
- 王宗寿 (武信節度使‧嘉王、王建の族子)
- 王宗信 (左神勇軍使)
- 王宗弁 (蜀州刺史、本名は鹿弁)
- 王宗汭 (招討副使)
- 王宗儒 (本名は楊儒)
- 王宗鍔 (右定遠軍使)
年号
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