王元姫

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王 元姫(おう げんき、拼音: Wáng Yuánjī217年 - 268年)は、中国三国時代から西晋にかけての人物。元姫は諱。は「」。夫の諡「文」を冠して文明皇后と呼ばれる。祖父は王朗。父は王粛。母は羊氏[1]司馬昭(追尊諡号・文皇帝)の妻。子は司馬炎の武帝)・司馬定国・司馬攸・司馬兆・司馬広徳・京兆長公主ら。

生涯

8歳の頃から詩論を暗記して間違いなく言い、徳行に優れるなど親孝行な子であった。9歳の時(225年)、母が病に倒れると着替えの暇も惜しんで看病に当たった。祖父はその孝行振りから、彼女が男として産まれなかったことを惜しんだ。12歳の時(228年)、祖父の葬儀で自然な哀悼の振る舞いをみせたため、父から益々敬異された。15歳で司馬昭に嫁ぎ、舅姑には婦道を尽くして仕え、目下の者にも謙って接した。

ある時、司馬昭の元に鍾会が仕官してきた。元姫は「鍾会は己の利を見て義を忘れ、何かと事を起こすのを好みます。重用すれば必ず国が乱れるでしょう」と、いつも司馬昭に告げていた。その後ついに、鍾会は益州で反乱を起こした。

265年に夫が死去した。後を継いだ子がから禅譲を受け即位すると皇太后となった。この時に初めて官卿が置かれた。皇太后になっても日頃の仕事を怠らず、贅沢をしなかった。また言動は必ず道理に沿い、礼儀にも外れなかった。268年に死去し崇陽陵に合葬された。

脚注

  1. ^ 蘭陵景侯夫人の羊氏とされるが出身の記録はなく、また晋の羊祜ら泰山の羊氏一族とも無関係。