永田春水

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永田春水(ながた しゅんすい、1889年2月18日 - 1970年5月1日)は、日本画家。本名は永田良亮。

経歴

1889年(明治22年)2月18日、茨城県北相馬郡相馬町(現取手市藤代)に生れる。1907年、茨城県立龍ケ崎中学校(現 茨城県立竜ヶ崎第一高等学校・附属中学校)を卒業後、一家で上野池之端へ移る。荒木寛畝寺崎広業結城素明に師事。1913年に東京美術学校日本画科を卒業後、国華社に入り古画研究に従事した。1920年に渡欧して仏画模写などに約1年間たずさわった。帝国美術院展覧会には8回入選、1931年には無鑑査、1936年には文部省美術展覧会審査員となった。一方で、1940年には東京女子高等師範学校講師を務めている。第二次世界大戦後は郷里に戻り、茨城県美術界の指導にあたり、茨城県南美術協会長となった[1]1957年には門井掬水浦田正夫らと茨城日展会を結成し、地域から美術界の発展に貢献した。

その後、自宅を鎌倉市へ移した。1970年5月1日、心不全のため東京都虎の門病院で死去。告別式は5月4日に千日谷会堂で行われた[2]

作風 

丹念な写生に基づく花鳥画を得意とした。「ただ、あるがまま、観察したままを描いたのでは写真になる。それから更に昇華させるのだ」との言葉が残されている[3]

脚注 

  1. ^ 永田春水”. 東京文化財研究所 (2014年). 2020年12月2日閲覧。
  2. ^ 訃報欄『朝日新聞』昭和45年(1970年)5月4日、12版、15面
  3. ^ 《霞月楼コレクション》4 永田春水 土浦に始まる戦後美術復興の先導者”. NEWSつくば (2020年7月26日). 2020年12月2日閲覧。