水谷川忠起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。曾禰越後守 (会話 | 投稿記録) による 2015年11月10日 (火) 07:33個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Cat追加)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

水谷川 忠起(みやがわ ただおき、嘉永元年3月17日1848年4月20日) - 大正12年(1923年5月25日)は、日本僧侶神職還俗前は応昭(おうしょう)を名乗った。僧位僧階は法印大僧正。

一乗院門跡(第42代)、春日大社宮司などを歴任した。

来歴

近衛忠熙の八男。5歳で一乗院門跡の法嗣として仏門に入る。慶応4年(1868年)に還俗し、明治2年に華族に列した。同様に興福寺系寺院の住職から還俗して華族となった者らは、総称して奈良華族と呼ばれた。明治17年(1884年)には、華族令に基づき男爵となった[1]。明治28年(1895年)、「水谷川」の家名を賜わり、春日大社宮司となる。

家族・親族

養嗣子に水谷川忠麿近衛篤麿四男)、娘に恭子(床次竹二郎夫人)がいる。

脚注

  1. ^ 小田部雄次『華族』中央公論新社2006年、341頁。

関連項目