死に至る病

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。LilyKitty (会話 | 投稿記録) による 2012年2月29日 (水) 09:22個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (不条理について)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

死に至る病』(しにいたるやまい、デンマーク語: Sygdommen til Døden)は1849年にAnti-Climacusという偽名で出版されたセーレン・キェルケゴールの哲学書。

概要

「この病は死に至らず」という新約聖書ヨハネによる福音書第11章4節の言葉を紹介する所から話が始まる。これはイエス・キリストラザロについて述べたものだが、それにも拘わらずラザロは死んだ。キリストの言葉を正しく理解しなかった弟子達にイエスは「ラザロは死んだ」と述べた。だがこの病はラザロの死因とはならなかったのだ。キリストが当時の人々に「もし信じたら神の栄光をお見せしよう」と言った。キリストがラザロを蘇らせるという奇跡を連想させるが、実際にはラザロは蘇らなかった。ここでキェルケゴールは次の様に述べる。病だけでなく、死そのものでさえ、ラザロの死因にはならなかったのではないか。キリストがラザロの墓の前で「ラザロよ、出で来たれ!」(第11章43節)と叫んだだけでこの病は致命的ではなかったと言えるのではないか。たとえラザロが蘇ったところで、遅かれ早かれいずれは必ず死んでしまう。ならば彼にとって生き返る事に何の意味が在るのか。そしてキェルケゴールは続ける。人間的に言えば、死は全ての終わりであるが、キリスト教的に言えば死は終わりではなく、永遠の生命にしてみれば全体の極一部でしかない。だから苦痛を感じている人が「死ぬより苦しい」と真情を吐露したところでそれは「死に至る病」ではなく、キリスト教的には死でさえ「死に至る病」とは言えないのだ。では何が「死に至る病」なのかと言うと、人間が人間として認識し得ない悲惨なのだとキェルケゴールは指摘する。キリスト者と異教徒との関係は、大人と子供との関係に等しく、大人は何を恐れるべきかを知っており、その他の危険が気にならなくなって真の勇気を手に入れたと書いている。そして、その「死に至る病」とは絶望の事であり、本書に於いてキェルケゴールは絶望には三種類あるとして、それらについて更に細かく分析している。

日本語訳

関連項目

外部リンク