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武宣皇后卞氏

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卞氏(べんし、延熹3年(160年または161年) - 太和4年(230年))は、曹操の妻で、曹丕曹彰曹植曹熊らの生母。が建てられると皇后を追贈された。は宣で、諡号としては武宣皇后。琅邪郡開陽県の人。

経歴

元は歌妓であったが、曹操に迎え入れられ側室になった。丁夫人が廃されると正室になり、曹丕・曹彰・曹植・曹熊を産み、息子たちの異母兄弟も養育した。華美を好まない倹約家で慎み深く、節度を重んじた。

名門の出である丁夫人からは軽蔑されていたが良く仕えた。丁夫人が曹操と離縁した後も、時候の挨拶を欠かさないなど配慮を続けたため、やがて丁夫人からも感謝されるようになった。建安24年(219年)、王后に立てられ、曹操が亡くなると王太后と号した。曹丕が即位すると皇太后となり、永寿宮と称した。曹叡が即位すると太皇太后となった。太和4年(230年)に亡くなった。

『魏志』武宣卞皇后伝注に引く王沈『魏書』では、曹操が手に入れた複数の耳飾を卞氏に選ばせると、中級の品を取ったため理由を聞くと「上等な物を選ぶと欲深な者と思われ、下等な品を選べば偽りの倹約とされるので、中程のものを選びました」と言った。

また、卞氏が病に伏せると曹丕の妻である甄氏が、姑の事を気がかりに思い泣き続けたため、その事を知った卞氏は「何と親孝行な娘でしょう」と感嘆した。

世説新語』の賢媛篇にも逸話が載せられている。卞氏は病を重くした曹丕を見舞いに来た。すると、曹丕は亡父の側室たちを全て自分が引き取っていた。その場に居る者の話を聞くと既に曹丕は亡くなっており、嘆息して「あなたが食べ残したものは、狗も鼠も食べようとはしないでしょう」と言い、墓へ行っても哭礼の弔いをしなかったと記されている。

備考

後に、弟の卞秉の曾孫が高貴郷公曹髦の皇后に、孫が元帝曹奐の皇后に立てられた。