正親町三条公氏

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正親町三条公氏
時代 鎌倉時代初期
生誕 寿永元年(1182年
死没 嘉禎3年9月15日1237年10月5日
別名 三条大納言、嵯峨
官位 正二位権大納言
主君 後鳥羽上皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 藤原北家閑院流正親町三条家
父母 父:三条実房、母:藤原経宗の娘
兄弟 公房公宣公氏公俊、女子(徳大寺公継の室)ら
藤原泰通の娘[1]
正親町三条実蔭、正親町三条実連、教誉実位叡澄
特記
事項
正親町三条家の始祖。
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正親町三条公氏(おおぎまちさんじょう きんうじ)は、鎌倉時代公卿正二位権大納言三条大納言と号す。左大臣三条実房の三男で、正親町三条家の祖。三条の他、嵯峨および西郊とも称す。兄に三条公房姉小路公宣らがいる。子に正親町三条実蔭等。

なお、明治維新後に正親町三条家は本家の三条家(転法輪三条家)と区別するために家名を「嵯峨」と改称したが、これは公氏の別号に由来している(公氏のもうひとつの別号である西郊を称する公氏の子孫の公家もかつてあった)。

経歴

以下、『公卿補任』の内容に従って記述する。

建久2年(1191年)1月5日、叙爵[2]。建久3年(1192年)10月26日、佐兵衛佐に任ぜられる。建久6年(1195年)1月6日、従五位上に昇叙。正治元年(1199年)1月5日、正五位下に昇叙。正治2年(1200年)1月22日、右少将に任ぜられる。建仁元年(1201年)1月29日、周防権介を兼ねる。12月22日、従四位下に昇叙。少将は元の如し。建仁3年(1203年)1月5日、従四位上に昇叙。10月3日、右中将に転任。元久元年(1204年)11月1日、正四位下に昇叙。元久2年(1205年)1月29日、播磨権介を兼ねる。承元3年(1209年)1月13日、越前権介を兼ねる。承元4年(1210年)12月17日、蔵人頭に補される。

建暦元年(1211年)10月2日、参議に任ぜられる。右中将は元の如し。建暦2年(1212年)1月13日、土佐権守を兼ねる。12月20日、従三位に叙せられる。建保5年(1217年)1月6日、正三位に昇叙。同月28日、備中権守を兼ねる。承久2年(1220年)1月22日、権中納言に任ぜられる[3]。承久3年(1221年)12月12日、従二位に昇叙[4]貞応元年(1222年)7月29日、勅授帯剣を許される。貞応2年(1223年)2月25日、中宮権大夫を兼ねる。12月17日には正二位に昇叙。嘉禄元年(1225年)8月18日、父実房が薨去したため喪に服す。11月5日、中宮権大夫を辞した。12月22日、復任した。嘉禄2年(1226年)7月29日、皇后宮大夫を兼ねる。安貞元(1227年)年2月20日、皇后宮大夫を止める[5]。4月9日、中納言に転正。寛喜3年(1231年)3月25日、権大納言に転任。10月12日、権大納言を辞退[6]嘉禎3年(1237年)9月15日、薨去。

脚注

  1. ^ 『尊卑分脈』の「藤原泰通」の項ではこの女性に関する記述がない。
  2. ^ 女御琮子当年御給。
  3. ^ この時、公氏は序列が参議第2位であり、上席にいた藤原定家を超えて任ぜられた。
  4. ^ 承久元年の伏見稲荷と祇園社への行幸の行事に奉仕した賞。
  5. ^ 皇后有子が女院(安喜門院)となったため。
  6. ^ 実は権大納言を止められたという。

参考文献

系譜

関連項目