櫛淵宣根

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櫛渕虚中軒肖像。伝伊藤若冲作。
櫛淵家家紋

櫛淵 彌兵衛 宣根(くしぶち やひょうえ のぶもと、寛延元年5月10日1748年6月5日) - 文政2年4月23日1819年5月16日))は、日本の剣豪神道一心流の創始者。姓は平氏。虚中軒と号した。幼名は八弥、後に彌兵衛と改めた。櫛淵家ではごく近年におけるまで代々の当主は彌兵衛と名乗った。家紋は五瓜二木

生涯

群馬県利根郡後閑村(現群馬県利根郡みなかみ町後閑)に出生。生家の櫛淵家は、飯篠長威斉から神道流を学んだとされ、櫛淵家はこれを家伝としていた。宣根は父宣久より神道流を学び、長じては秋尾善兵衛利恭より微塵流剣術を習得した。微塵流は宣根に重要な影響を与え、後に自ら「夫我神道一心流本名微塵流云々」と「神道一心流兵法切紙」の付箋で記している。これらは宣根三十代のうちに習得したと思われる。三和無敵流揚心流柔術も学んだとする記述もあるが、明確な資料に乏しい。

櫛淵宣根生家。天明1年(1781年)7月16日建立。大正10年の上越線(上越南線)開通により、移築。

天明5年(1786)、師秋尾利恭の命により、微塵流を発展させ、神道一心流創設。

次に当時の沼田藩のお家流であった直心影流剣術を習い、江戸にて更に4ヶ月修行を重ねている。直心影流は神道一心流に大きな影響を与え、「神道一心流太刀数目録次第」に直心影流の技名と一致するものが多く見られる。

沼田藩で盛んだった戸田流薙刀術(戸田派武甲流)も片山治郎左衛門より習得、天明6年(1786)に免許を得ている。また槍術では宝蔵院流をも習得し、己が流派へと取り入れて行った。

寛政2年2月(1790)、42歳にして江戸へ進出、下谷の御徒町に稽古場を創設した。15年後、文化3年(1806)の江戸の大火で道場を小川町広小路に移し、文化12年(1806)6月まで、華々しい活動を行った。全盛期の門人は451名を数え、深川八幡前にも出張稽古場を創設した。

寛政4年には一橋徳川家に御徒並として召し抱えられた。その後小十人格御広敷添番まで昇進し、遂に一橋家剣術師範役を勤めるまでの深い関係の礎を築いた。

実子はおらず、甥(実弟の子)に当たる宣猶が養子となり、跡目を継いだ。

四代目にて一旦絶えるが、太平洋戦争後、地元群馬県にて神道一心流保存会が設立され、伝われる120の形の内48本が復元、「刺突の剣」「斬撃の剣」等の21の形が今に到るまで伝えられている。

墓所

櫛淵宣根の墓。

顕彰碑

櫛淵宣根顕彰碑

上野不忍池に、櫛淵宣根の顕彰碑が設立されている。

この碑に記されている「五家之刀法」とは、宣根が様々な兵法に広く接して一流を創立したという意味かと思われる。

参考文献

  • 加藤寛「神道一心流 櫛淵宣根、宣猶、盛宣の事跡」『國學院大学体育学研究室紀要』第11巻

関連項目